izumiwakuhito’s blog

あなたでしたらどう思いますか?

子どもがいない人生 「産まない」と「産めない」は違う

下記の記事は日経ARIAからの借用(コピー)です

「結婚、出産が当たり前」の価値観で育ってきたARIA世代
 初めまして。くどうみやこです。私は、子どもがいない女性を応援する「マダネ プロジェクト」を主宰しています。マダネ(madane) は、人生は「まだまだ」これから!というメッセージと、新しい女性像を意味する「ネオ(neo)」を組み合わせた造語です。
 ARIA世代の40代、50代の方は、小さいころから「女性は結婚して、子どもを産むのが普通」と思ってきたのではないでしょうか。私自身がまさにそうで、いずれそういうライフコースをたどるであろうことを疑いもしませんでした。でも実際は、全く違う展開になりました。
 連載の初回はマダネ プロジェクトを始めるきっかけとなった、私自身のことからお話ししたいと思います。
子どもがいない女性を応援する「マダネ プロジェクト」を主宰する、くどうみやこさん
寿退社を目指したはずが…仕事の面白さに目覚めた20代
 私が社会人になった頃は、まだ女性は結婚したら仕事を辞める人が大多数。私も「目指せ寿退社」という感じで就職しました。
でも、思ったように事は進みません。たまたま機会があって転職することになったのですが、新しい会社は女性の係長や課長がいる、当時としては画期的な職場。広告宣伝の部署に配属され、そこで仕事の面白さに目覚めました。
 ところが会社の再編で部署が解体され、営業事務の部署に異動。やりたい仕事はできなくなり、結婚相手もいない……まさに暗黒時代です。そんな28歳のとき、知り合いの紹介でアパレルのプレスで働き始めました。
30歳を過ぎたら「いずれ結婚すればいいや」と焦りなく
 アパレルの世界では、今まで会ったことがないようなスーパーウーマンたちが大活躍していました。面接で私を採用した女性役員はいろんなブランドを手掛けてきた人。「今までは大企業の看板で世の中が回ってきたけれど、これからは会社に頼らず、自分で生きていける力を持たないとダメ」と教えられました。
 再び仕事にのめり込んでいき、気付いたら30歳を超えていました。30といえば、当然結婚していると思っていた年齢。でも、いざ過ぎてしまったら「いずれ結婚すればいいや」と、逆に焦りがなくなってしまいました
「産まない」と「産めない」は違うことを痛感
 焦っていたのは親のほうです。当時、長く付き合っている人がいたので、「あなたたちどういうつもりなの?」と両方の親からたびたびせっつかれました。とうとう彼のお父さんが出てきて、「僕はもうすぐ定年だから、どうか現役のうちに式を挙げてくれ」と懇願されたんです。親たちに背中を押され、というかほとんど突き飛ばされるようにして、急きょ式を挙げました。
 結婚を機に湘南に引っ越し、会社は辞めました。アパレルは毎日終電で帰るような激務。ここで一旦、自分がやりたいことを考え直したいと思ったんです。もともとトレンド情報を追いかけるのが得意だったので、2002年に「流行りもの情報サイト kiteru」というウェブサイトを立ち上げました。
 結婚しても、子どもはなかなかできませんでした。当時は妊活という言葉もなかったし、フリーになって自分の力を試そうと仕事に軸足を置いたら、結構依頼も来て忙しくなってきた。そうやって35歳が過ぎ、40歳が目前になって、「あれ、私もしかして子どもがいない人生になるのかな」、そんな考えが頭をよぎりました。
 思い描いていた人生とは少し違うけど、それもありかな……そんなふうにうっすら思い始めた矢先、子宮の病気が発覚して、子どもを産めないことが決定的になりました。
 「産まない」と「産めない」は違う。今までは少ないながらも可能性があったものが、ゼロパーセントになった。その事実を突き付けられて、「ああ、何で今まで真剣に向き合わなかったんだろう」と、大きなショックを受ける自分がいました。
涙を流しながら思いを吐露した女性たち
 とはいえ、いつまでもしゅんとしていても仕方がない。生来の探究心で「子どもがいない人生ってどうなんだろう」ということが知りたくなり、いろいろ調べ始めたんです。そうしたら、あまりにも情報がないことに気付きました。
 子どもがいない人たちだって居場所は欲しいはずだし、悩みもあるはず。それで、まずは子どもがいない人同士で集まりませんか? と呼びかけました。最初は15人くらいが集まり、子どもがいないことになった経緯や今の気持ち、世の中に対して思うことを話してもらった。そのときに初めて、「子どもがいない人のリアルな本音」に接したんです。
 子どもがいない人は職場や友人の中にもいたりしますが、センシティブな問題なので、立ち入ったことまではなかなか聞けないですよね。一人ひとりの話を聞くうちに、「これは私が思っている以上に、みんなすごく傷ついたり、いろんな思いを抱えたりしていたんだ」ということが分かってきて、衝撃を受けました。しかも、多くの人が話しながら、途中から涙を流していたんです。単に「子どもがいない」というだけではとても済まされないことだと思いました。
 まだまだ長い後半の人生、先が見えずに不安な気持ちでいる彼女たちが、どうしたら前向きになってくれるだろう。彼女たちの気持ちをすくい上げて世の中に発信することが、私の使命なんじゃないか。そんな思いで「マダネ プロジェクト」は始まりました。
くどうみやこ
大人ライフプロデューサー/トレンドウォッチャー
メーカーの広告宣伝部、アパレルのプレスなどを経て、2002年より「トレンドウォッチャー」として活動をスタート。

小室さんが司法試験後に見据える“次の一手” 眞子さま皇女で「15億円支給」まで粘る可能性も

下記はAERAdotからの借用(コピー)です

秋篠宮家の長女、眞子さま(29)との婚約が延期になっている婚約内定者・小室圭さん(29)が5月23日、米フォーダム大学ロースクールを無事に卒業した。卒業式はオンラインで行われ、式典には弁護士資格を持つヒラリー・クリントン氏も登場し568人の卒業生にエールを送った。

 卒業生のほとんどは名前が読み上げられると、本人の写真とメッセージが画面に映し出されたが、342番目に呼ばれた小室さんの画面には写真もメッセージも表示されなかった。

「小室さんは7月に行われるニューヨーク州の司法試験を受験する予定で、これに合格すれば来年1月ごろには弁護士資格を取得できます。卒業に際して、メッセージも写真もなかったのは本人の希望なのか物理的な事情なのかはわかりませんが、オンラインとはいえ、学生にとっては記念すべき晴れの舞台です。ここに、何も載せなかったというのは、マスコミからの視線、批判を避けたいという気持ちがあったのかもしれません」(皇室記者)

 小室さんと眞子さまの結婚が延期になり、ここまで問題が複雑になったのは、小室さんの母・佳代さんと元婚約者Aさんとの金銭トラブルが発端だ。4月には小室さんが金銭トラブルについて4万字に及ぶ文書で説明したが、この文書によってさらに状況を混乱させる結果となった。

「文書を発表した4日後、小室さんは主張を一転させて『解決金を渡す』としたものの、具体的な動きはなく、佳代さんの遺族共済年金の不正受給疑惑も依然として払拭(ふっしょく)されていません。しかも、文書発表の翌日には、秋篠宮家の最側近である皇嗣職大夫が文書の内容について『眞子さまのご意向が大きかった』と明かしたことで、これまで以上に眞子さまへの風当たりも強くなってしまった」(同前)

 さらに追い打ちをかけたのが、佳代さんの“フェイク長期入院”だ。小室さんの文書をうけてAさんは「佳代さんは体調が悪く、長期間の入院中と伺っております」とコメントしたが、そのおよそ1週間後、「女性セブン」にしっかりとした足取りで自宅マンションに入る佳代さんの姿をキャッチされた。

「ここまでの流れを見ても、誰も何も納得できないでしょう。一部の皇族の方々からは『もういいかげんにしてほしい』という声が出ています。また『仮に小室さんと結婚して、小室さんが皇室行事に出るならわれわれは一切でない』と厳しい言葉を漏らしている方もいらっしゃるといいます。秋篠宮さまも、娘の結婚という以前に『皇嗣』として、また将来の天皇家としての信頼を回復することを念頭に置かなければなりません。この問題を長引かせてはいけないというお気持ちは誰よりもお強い。そのためにも眞子さまと小室さんは一刻も早く問題をクリアすべきなのですが、眞子さまは結婚を目指して一直線ですから……」(皇室ジャーナリスト)

 小室さんはニューヨーク州の司法試験が終わっても一時帰国することはなく、会見の予定もないという。

 別の皇室記者は「もしかしたら、結婚を焦らない事情ができたのでは」と話す。

「仮に眞子さま皇籍を離脱し一般人になった上で小室さんと結婚するという選択をしたとしても、はたして小室家がそれで納得するかは疑問です。女性宮家創設となった場合は男性皇族の配偶者が皇室に加わり皇族となるように、小室さんも皇族となる可能性が高くなります。一部では眞子さまが皇女となれば将来的に15億円が入るので、それまで結婚延期も視野にいれている、との報道も出ています。皇位継承のあり方を検討する有識者会議もスタートしましたから、その成り行きを見ようと考えている可能性あります」

 かつて秋篠宮さまがお二人の結婚について述べられた「多くの人が納得し喜んでくれる状況」には、まだまだ程遠い状態が続いている。(緒方博子)

80歳男性がコロナ重症 長男は「苦しくないようにして」と言うが、孫娘は「自分が感染させた」と泣いて…

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新型コロナウイルス感染症のケアに従事する救命救急センターの看護師が、家族内感染による影響で、「代理意思決定への支援がより一層難しくなっている」と語ってくれました。
 80歳の男性。妻、長男家族と同居しており、家族内感染した。長男の妻は症状が軽くホテル療養、孫は無症状だがPCR陽性で自宅療養となった。家族の中で、本人が最も重症であり、入院後すぐに人工呼吸器による治療が開始された。
> 妻と長男はPCR陰性だったが、濃厚接触者とされたため、家族への初回の病状説明は電話により行われた。長男から「ECMO(体外式膜型人工肺=体外循環で肺の機能を代替する機械)を使えないか」という質問があったが、患者の年齢や既往歴から適用ではないことが伝えられた。その後、 腹臥位ふくがい 療法(急性呼吸不全の患者に対する治療法の一つで、うつぶせにして人工呼吸療法を行うこと)など、ECMO以外の積極的な呼吸療法が行われたが改善せず、「昇圧剤をどこまで使用するか」「急変時に蘇生行為を行うか」などについて、家族に意思を確認しなくてはならない時期がきた。
> この時点で入院から2週間以上が経過しており、隔離期間を終了した長男が初めて面会に来院した。本人は薬により深く眠っているため意思疎通ができない状態であった。「人工呼吸器でできる治療は限界で、いつ何があってもおかしくない状態です」という担当医の説明に対し、長男は「苦しくないようにしてほしい」と話した。医療チームとしては、キーパーソンである長男のこの言葉は、緩和ケアへ移行するかどうかを決める重要な意見であった。看護師から「他のご家族も同じお考えですか」と長男にたずねると、「娘(本人の孫)は『自分が感染させてしまった』と毎日悔やんで泣いているし、母(本人の妻)は『何とか良くなる方法はないのか』と言っています」ということだった。さらに長男との話し合いを進めた上、積極的な治療を行わずに、症状などを和らげる緩和ケアに移行することにした。数日後、長男の 看取みと りのもと患者は亡くなった。
面会制限で顔を合わせる機会を奪われ
 新型コロナウイルスの家族内感染は、実際に多く起こっています。このケースから、家族内でも現実の受け止め方が違い、家族一人一人へ及ぼす影響は計り知れないことがわかります。重症者がいる場合、家族は自責の念を抱きながらも、本人に代わって、治療に関する「代理意思決定」をしなくてはならない局面にも立たされます。
 代理意思決定者になる人は「患者がこの状況下で何を望むか」を考えることが肝要ですが、家族の心情を考えると、冷静に考えることは非常に難しいと思われます。
重大な決定をする人への重圧
 代理意思決定には、家族一人一人が患者さんの状況を理解し、納得できるよう、丁寧に話し合いを重ねることが求められます。しかしコロナウイルスの流行によって、このケースのように、家族は濃厚接触者として隔離期間が設定され、重要な話も電話での対応にならざるを得ない状況が出てきています。長男の「苦しくないようにしてほしい」という言葉は、ようやく患者さんと面会できたからこそ、表現された言葉かもしれません。
 本来であれば精神看護を専門とする看護師やカウンセラーなどに、本人の妻や孫へのサポートを依頼することが望ましい事例でしたが、面会制限があることによって専門的サポートを行えないことももどかしかったと看護師は語っています。本来なら受けられるはずの、そうしたサポートがないまま家族が亡くなる経験をすることで、妻や孫の自責の念をさらに強くしてしまうことが懸念されました。
 家族のそれぞれの思いを受け止めつつ、重大な治療方針を決めなくてはならない長男のことも心配したと言います。看護師が長男へ、「他のご家族も同じ考えですか」とたずねることで、それぞれの家族の思いの一端を垣間見ることはできましたが、それらに対して、「現状では適切なケアができなかったのではないか」と、この看護師は悔やみます。
コロナ流行下で問われる看護師の力
 新しい感染症のため治療法自体が確立しているわけではなく、「その時点で『効果的』と言われている治療や薬剤を試し、それを評価することの繰り返しだった」と、看護師は振り返ります。そのため、見通しが厳しいと思われても、緩和ケアに移行するかどうかの判断も難しく、今回のケースでも、医療チームのなかで「積極的治療の継続」と「緩和ケアへの移行」で意見が分かれたそうです。
 代理意思決定には、情報の共有やそれぞれの価値観の明確化などが重要ですが、それ以前に、家族などが代理で意思決定できる状況を整えるための支援が求められます。他の家族が異なる考えを持つ場合は、それぞれの精神面へのサポートも必要です。コロナのために以前のようなコミュニケーションがとれない今、家族をどう支えていくか、看護師の力が問われています。(鶴若麻理 聖路加国際大教授)

「退職金蒸発、借金700万」大企業定年後に認知症になった70代義父母に人生を狂わされた30代女性の半泣き

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人もうらやむ有名大企業を定年退職した義父母は70代となった今、認知症になり、頑として病院へ行こうとしない。夫とともに子育てしながら義父母のケアをする30代女性はある日、通帳を見て愕然とする。退職金は消滅し、700万円もの借金があった――。
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。
明らかに様子のおかしい義父母に振り回される30代の嫁
中部地方在住の能登千秋さん(仮名・30代後半)は現在、介護認定調査員をしている。30代前半、介護福祉士として働いていた頃、6歳上の夫と結婚。2015年には双方の実家に遠くない場所に新居を建て、翌年12月に長男を出産。子育てと仕事に追われつつも、幸せに暮らしていた。
ところが2017年3月、突然、当時72歳の義母から電話がかかってきた。
「千秋さんのお姉さん、もうすぐ2人目が生まれるんでしょ? なのに、まだ上の子のお祝いをしてなかったわよね?」
能登さんの姉が上の子を出産したのは3年前。お祝いはとっくにもらっていることを伝えると、「そうだった? やだわ〜、最近忘れっぽくて」と笑ってごまかした。
半年後。姉が無事2人目を出産したことを義母に伝えると、その数日後、再び電話が。
「お父さんの運転で(能登さんの)お姉さんの産院へ行こうと思ったら迷子になっちゃって……」
後で姉から聞いた話によると、産院に着いた義母は、「“初めて”来る病院だから迷っちゃった」と言ったそうだが、そこは能登さんが長男を出産した場所。義両親は生まれた長男に会いに何度も来ていた。
明らかにおかしい。そう思って義父母に介護認定調査を受けさせようとしたところ、義母は激怒し断固拒否。義父は要介護1だった。
義父も義母も、いよいよ「これはヤバいな…」
その後、義母から「お姉さんの2人目はいつ生まれるの?」とメールが届く。能登さんはいよいよ、「これはヤバいな……」と思った。
その年の暮れには当時73歳の義父が車を自宅車庫にバックで駐車しようとして、アクセルとブレーキを踏み間違え、車庫に突っ込んでしまい、後方ガラスが大破。能登さんは夫とともに義父母を必死に説得し、免許を返納させ、車を処分した。
すると連日連夜、義父母から「車を返せ!」「車が盗まれた!」「車を貸してくれ!」などと、電話やメールの嵐。能登さん夫婦は、義父母ともに認知症の症状が悪化していると確信した。
それからというもの、「財布や貴金属類がなくなった、泥棒が入ったんだ」と警察を呼んだものの、後日、冷蔵庫や下駄箱の中から出てきたり、義父が歩いて数分のコンビニへ出かけたきり帰ってこないため警察に届けたところ、本人は片道5kmほど先の寿司屋でのんきに寿司を食べていたり。能登さん夫婦は仕事や幼い子どもを抱えつつも、2人に振り回され続けた。
認知症なのに、頑として病院へ行かない義父母
能登さん夫婦は、2人に適切な介護サービスを受けてもらいたいと考えているが、家を訪ねれば居留守。電話をかけてもメールをしても無視。対面しても無言を貫くため、お手上げ状態だった。
義母はまだ症状が軽かったが、義父の病院でさえ面倒になるのか、義母が勝手に受診をキャンセルしてしまうため、義父の薬が尽きてしまうこともしばしば。能登さんと同業の夫は、「俺、介護の仕事を続ける自信をなくすくらい、うちの母さんヤバイわ」とこぼした。
悩んだ夫は、母親の古くからの友人や受診予定の病院の相談員に、万が一、母親が勝手に受診日の変更や中止をしようとした場合は、自分に連絡をしてもらえるようお願いした。
そして受診日。実家へ迎えに行くと、2人はいない。能登さん夫婦は各方面に謝罪の電話をし、息子を遊ばせながら待つこと1時間。何食わぬ顔で2人が帰ってきた。
それを見た夫はキレて、こう詰め寄った。
「どこ行ってたんだよ! 母さんたちのことでどれだけみんなに迷惑をかけてるか分かってるのか?」
ところが、暖簾に腕押しで、義母は朗らかに笑いながら「ね〜、こんな認知症のお父さんと忘れっぽいお母さんじゃ、千秋さんは本当に大変よね〜?」とまるでひとごとだ。
夫は溜息をつくしかなかった。
「これ以上はもう、千秋に迷惑かけられないから、離婚して実家に帰ってもらうことにしたよ……」
それを聞いた義母の顔は真っ青。
「何言ってるの? 離婚なんてダメよ! ねえ千秋さん、離婚なんてしなくたって大丈夫でしょう?」
「夫の気持ちを尊重して、離婚しようと思います…」
夫から何も聞かされていなかった能登さんは内心慌てたが、「夫の気持ちを尊重して、離婚しようと思います……」とすぐに話を合わせる。
「俺ら夫婦が真剣にお願いしてるのに、病院だけは絶対に行ってくれないよね? 治す努力もせず逃げてばかりで、そのあげく俺たちを巻き込むんだから、それなりの覚悟があるんだろ? 良くわかったよ。離婚なんて本意じゃないけど、千秋にこんな親の面倒を見させるわけにいかない!」
夫は真剣だ。
すると、義母はおどおどした表情で「私が病院へ行ったら離婚しないの?」と聞いてきた。
「病院なんて行くのが当たり前! 俺が千秋や子どもたちに迷惑がかかると判断したら離婚だ。俺は苦労させるために千秋と結婚したんじゃないんだよ!」
ようやく義両親は病院を受診。義母はまだ軽度だが、2人はアルツハイマー認知症と診断された。
退職金は蒸発するばかりか、700万円もの借金が発覚
翌年(2018年)6月。能登さんは次男を出産。5月から産休・育休に入り、実家へ帰っている間も、義母から「車がないので買物に連れてって」などと電話やメールがあった。
その頃の義父母は、家の雨戸すべてを閉め、朝か夜か分からない生活をし、来客があっても無視。呼び鈴の電池を外して鳴らなくしてしまっていた。能登さん夫婦は、毎日生存確認を兼ねて食料を届けたり、能登さんが食事を作って食べさせたりしていたが、ある日玄関にチェーンをかけてしまう。仕方がないので夫はチェーンを切断。その後も能登さん夫婦は、忙しい仕事や子育ての合間に、毎日2人の様子を見に行っては、山になった食器を洗い、最低限の掃除や洗濯をし、たまったゴミを捨てた。
そんな義父母は2人とも、定年まで有名大企業に勤めていた。義母は度々「息子夫婦に迷惑をかけたくないから、いずれお父さんと施設に入るつもり」と言っていたため、2人の老後の備えに関しては心配していなかった。
同年10月。能登さん夫婦は、2人の認知症が進み、何もかもわからなくなってしまう前に、本人たちの意見を聞いておこうと思い立ち、話し合いの場を設けることに。
すると義母は、「そろそろお父さんと施設に入るわ」と言い出す。夫が場所や予算について訊ねると、「山のほうがいいわね」と義母。さらに夫が受給している年金額について訊ねると、「この家売りましょう、お父さん」と義母。
能登さん夫婦は、嫌な予感がして顔を見合わせる。そこで能登さんが、
「お義母さん。私たち夫婦は家を建てて、まだローンもたくさん残っていますし、これから子どもたちの教育費や、自分たちの老後の資金も貯めていかなければならず、余裕が全くありません。私たちは、施設に入る資金について気になっています。大丈夫か大丈夫じゃないかだけでも答えていただけませんか?」
義母は通帳を取り出して広げた。
おそるおそる覗き込むと、残高は10万円弱しかないうえに、700万円ほどの借金まで発覚。義父が60歳で退職したときに、かなりの額もらっていたはずの退職金は跡形もない。
ゴミ屋敷の家は明太子と化粧品の山
「家を売って施設に入るわ」と義母は簡単に言うが、家の中はゴミ屋敷状態。しかも借金を抱えている状態では、義母がイメージしているホテルのような施設になど到底入れるはずがない。
最近、紛失や再発行が続いていたため、これを機に能登さん夫婦は義父母の通帳とキャッシュカードを預かることにした。「お願いします」と言って通帳とカード一式を差し出したはずの義母は、その日のうちに「通帳返せ!」「カード返せ!」と言い出し、以降、毎日のように「お金がない!」「5万円おろして持ってきて!」などと連絡が来た。
夫が何を買っているのか訊ねると、義母は「何も買ってない」の一点張り。
しかし、毎日義実家へ通っている能登さんには大方見当がついていた。義母は通販にハマっていたのだ。某有名メーカーの明太子や北海道のお取り寄せグルメ。通販番組でよく見るオールインワンクリームなどの化粧品が何個もあった。おそらく、年金生活になっても現役時代の生活水準が下げられず、気付いたら借金が膨らんでいたのだろう。
これほど全然楽しくないしんどいクリスマスは人生初めて
身の丈に合わない贅沢ぶりにいら立った夫が、「早く家片付けて、売って借金返せよ!」と怒鳴ると、「そんなに大きな声出さないで! お隣さんに聞こえるでしょ!」と世間体を気にする義母。
夫は夜勤もあり、激務で疲れている。2歳の上の子にはまだまだ手がかかるし、下の子は生まれたばかり。だがそんなことも言っていられない。能登さん夫婦は話し合いを重ね、義父母を自宅に呼び寄せ、義実家を片付けて売却し、借金を返済する方針を決めた。
同居開始は12月25日。三十数年生きてきた能登さんは、人生で初めて、全く楽しみでないクリスマスを迎えたのだった
旦木 瑞穂ライター・グラフィックデザイナー

ワクチン副反応 接種者の本当の声「痛みで家事もできず…」/私夫婦2回接種したが副反応0でした

下記は日刊ゲンダイオンラインからの借用(コピー)です


新型コロナウイルスワクチン接種後、肩が痛くて腕が上がらなくなった。あまりにだるくて、車を運転して帰れなくなった」

 これは、2回のコロナワクチン接種を終えた大学病院勤務の医療従事者から聞いた話だ。早くワクチン接種を、と願う人が多い一方で、SNSを中心に副反応のつらさがアップされ、一部ではキャンセルする人も出始めているという。そこで、日刊ゲンダイで「自宅で最期を迎えたい 知っておきたいこと」を連載中の「あけぼの診療所」院長の下山祐人医師に、自身が体験した副反応の感想と、実際に行った対処の仕方を聞いた。

「私自身は1回目も2回目も倦怠感と発熱があり、2日目からは打った側の腕の筋肉痛で腕が上がらなくなりました。発熱は、平熱が36.1度なのが37.3~38度に。下痢も2~3日目から起こりました。倦怠感は1週間ほど続きました」

 厚労省の医療従事者約2万人対象の副反応調査(中間報告)によると、2回目の接種の方が1回目より副反応が強く表れ、年齢が高くなるほど発生率が低下し、女性の方が副反応が強かった。2回目の発熱は38%、倦怠感は69%、頭痛は54%だった。

では実際にそのような副反応が出た場合、どう対処すればよいのか。

「腕の痛みや発熱に関しては、市販の鎮痛剤のロキソニンや解熱鎮痛剤を使う。私は、お腹の痛み止めの薬と下痢止めを服用しました」

 厚労省自治体、ファイザーなどは、ワクチン接種や副反応に関する相談センターを設けている。たとえば「東京都新型コロナウイルスワクチン副反応相談センター」は土日祝日を含む毎日24時間対応だ。どのワクチン接種でも副反応が起こる可能性がある。副反応はワクチンが免疫をつけるための反応であるものの、接種後2~3日経っても改善しなかったり、気になる症状があれば、電話相談を。

 厚労省は「ワクチンの成分に対し、アナフィラキシーなど重度の過敏症の既往歴のある人は接種できない」としている。アレルギー体質の場合、接種の判断はどうすればいいのか?

「体温や体調を診て判断するのですが、大抵の人は接種することになると思います。ただし接種後、通常は15分間安静にして待機するのに対し、アレルギー体質の人は30分ほどの待機が必要」

 下記は、「あけぼの診療所」スタッフから取った副反応に関するアンケート結果の一部。ただし、症状がまったく出なかった人もいた。過度に恐れず、しかし万が一を考えて、翌日、翌々日は寝込んでも大丈夫なように準備しておいた方がいい。

 ◇  ◇  ◇

●女性(38)/1回目は接種日の夜から腕の痛みが出現、翌日は痛みで腕が上がらない。翌々日も痛い側の腕を下にして眠れなかった。2回目は周りのメンバーが高い確率で発熱していたのでびくびくしていたが、杞憂に終わった。体調が悪くなるかもという不安の方が大きかった。ほぼ症状が出ない人もいるということも知っておくべき。

●女性(33)/1回目は腕が痛く、体がだるかった。2回目は接種当日は腕の痛みのみ。深夜に関節痛で目が覚め、朝体温を測ると38度近く。カロナール(解熱鎮痛剤)を服用し、途中で切れたのでロキソニンを服用。熱は翌々日まで続き欠勤。熱より痛みがひどく、家事もできず、ひたすら横になっていた。

●女性(28)/2回目は腕の痛みと、夜から気分が悪くなり夕食を食べられなかった。翌日発熱で、カロナールを服用し、熱が下がらなかったのでロキソニンを服用。頭痛もあり。接種後、翌々日には熱が下がり出勤。
 
追記:副反応が出る人は若い人、特に女性のようです。接種前に循環器の先生に聞くと大丈夫だと言っていました。高齢者には心配いらないと思います。少し騒ぎすぎるようです。

岸惠子「孤独を満喫した先の自由。〈好きなことをやれ。人生短いんだ〉恩師の言葉を胸に」

下記はヤフーニュースからの借用(コピー)です

婦人公論』6月8日号の表紙は女優で作家の岸惠子さんです。このたび、88年の人生を振り返る自伝を上梓した岸惠子さん。結婚に伴い渡仏、女優業に邁進しながら国際ジャーナリストとしても活躍するその生き方は常に情熱的。新しい「いま」を手に入れるためにいくつもの決断をしてきました。発売中の『婦人公論』から記事を掲載します。 【写真】パリのカフェを楽しむ岸惠子さん * * * * * * * ◆「5月1日」へのこだわり ちょうど1年前、2020年の5月いっぱい、『日本経済新聞』に連載した「私の履歴書」が思わぬ好評をいただいて、沢山の出版社から自伝として本にすることをお勧めいただき、結局、旧友の推薦で岩波書店にお願いすることになった。 新聞の連載は、枠が限られていたので、《本にするなら思いのたけを書きたい》というたいした意気込みで書き始めたのが、8月ごろだったと思う。どうしても今年、2021年の5月1日には発売の運びにしたい、という思いにとらわれてしまった。 けれど、書いた文章を幾度も読み返す癖があって、その度に手を入れたり、書き直したりするので捗らない。間に合わないのではないかとかなり焦ったりした。5月1日は私の独立記念日なのだ。
婦人公論』6月8日号の表紙に登場した岸惠子さん
◆二者択一の覚悟を決めて卵を割る 『岸惠子自伝』の副題にしたように、「卵を割らなければ、オムレツは食べられない」。居心地のよい生活を壊してでも、未知の世界に踏み入ってみろ。というフランスの諺(ことわざ)なのだ。 私はこれまでの人生で、3回、慣れ親しんだ卵を《えいッ》とばかりに割った。 その1回目が、1957年の5月1日なのだった。 ニッポンという恋しい祖国や、両親や、日本映画という私の生き甲斐である大事な卵をポンと割って、医師であり、映画監督でもあるイヴ・シァンピ氏一人を頼りに、身一つで祖国を去りフランスはパリに行った。24歳の時だった。 その頃の日本は海外旅行が自由化されていなくて、自分のお金で飛行機の切符さえ買えなかった。すべてをイヴ・シァンピ監督がギャランティ(保証)してくれての旅立ちだった。二度と日本へは帰ることが出来ないかもしれない、というほどの覚悟だった。 彼との出会いは、日仏合作映画『忘れえぬ慕情』への出演。 私より11歳年上だった彼は、第二次世界大戦の末期には医科大学の学生。ナチス・ドイツに占領されていたパリから、ロンドンへ亡命していたドゥ・ゴール将軍の「自由フランス」の合言葉に共鳴して12人の医科大学生と一緒に地下運動に入り、大勢の負傷者を救って沢山の勲章をもらった医師でもあった。 彼には、戦争をかいくぐってきた人の、強靭な静かさがあった。

岸惠子自伝卵を割らなければ、オムレツは食べられない』岩波書店
ユーモアと素晴らしい話術を持った、骨太そうな人柄に私は次第に惹かれていった。合作映画の撮影が終わる頃、彼が言った。 「好奇心の強いあなたに日本以外の国々を見せてあげたい。今の日本では、海外旅行が禁じられている。僕が招待する。アフリカや、中東、ソヴィエト連邦も見せてあげたい。地球の上は、日本のように平穏な国ばかりではないことを見せてあげたい」 私は、《これって、もしかしたらプロポーズ?》と思い、たぶん複雑な表情をしたと思う。その私を見て、彼は笑った。本気と、からかいの混じった複雑な笑いだった。 「フランスに、『卵を割らなければ、オムレツは食べられない』という諺がある。僕の招待でいろいろな国を見て、やっぱり日本がいいと思ったら帰ってくればいい。卵は二者択一の覚悟が決まった時に割る方がいい」 「そんな勝手をしていいの?」と私はびっくりした。 「あなたは自由なんだよ。あなたの意志を阻むものがいるとしたらそれはあなた自身だけだ」 私は恋に落ちた。 人間とは、哀しくもあり、不思議な生きものでもあるのだ。 あれほどの大決心をして、愛するものすべてを捨てて得た結婚生活に、私は一方的に終止符を打ってしまった。 離婚を決し、18年もの間、私のすべてを愛しみ育んでくれたイヴ・シァンピ邸を出たのが、また、1975年の5月1日だった。 私は熟慮もせず、我武者羅な負の情熱に突き動かされて、大事な2つ目の卵を割ってしまった。 何故か? それは『自伝』をお読みいただきたい。 これって少し狡いかな? 仕方がないでしょう。短期間に夜昼をおかず、不眠も疲れもさておき書き綴った長い長い物語を、かいつまむのは酷というものです。
◆子供をやめると決めたあの日 私はこの『自伝』の中で、昭和初期の港町横浜を覆っていた時代風景と、私を取り巻く大人たちの考え方や、生活ぶりを書いたつもりなのだ。340頁近く書いたのに、書きこぼれた様々がある。 88年も生きてきた私が、思いのたけを書いたら、上、中、下巻になって、読む方たちがうんざりなさることだろう。 私が一貫してテーマにしたいことは《孤独》。そしてその取り込み方なのだ。孤独とは一人ぼっち、になることではない。 大勢の中にいても、一人孤独を満喫することが出来れば、そこには自由があるはず。人間は生まれた時も、死ぬ時も一人。だったら、その別れがたい孤独を、自分流に取り込んで、自由の醍醐味を味わう。私の大雑把な考えです。 幼い頃の私は、絵や字を書くのが好きだった。大人になったら物語を書く人になりたいと思っていた。思っていただけではなく小学生の時から、綴り方の域を出ない、幼稚な物語を書いて楽しんでいた。それらが「家」というすべてのものと共に焼け落ちて消えてしまったのは、第二次世界大戦末期の昭和20年、5月29日の横浜大空襲だった。75年も昔のこと。自伝には、その時の生き地獄の有様を書いた。 私は、華奢な体に似合わず私と一緒に木登りをしたり、ダジャレを連発する面白い母が大好きだった。その母が、襲いかかるB29爆撃機の大軍にも怖けず、12歳の私を置いて、留守にしていた隣家に残された赤ちゃんを助けに駆け出した時は、心底凄いと思ったものだった。 「公園に逃げなさい。松の木のところで待っていて!」 その松の木に登って、私は直撃弾で我が家が燃えるのを見ていた。 防空壕に入った人たちは、爆風と土砂崩れでほとんど犠牲になった。 松の木にしがみつき、ガタガタ震えながら「12歳、私は今日で子供をやめた」と決めた。
◆好きなものには夢中に、苦手なものは放棄 私は神奈川県立平沼高校で舞踊サークルや演劇サークルに入り、土・日は茶華道、週3回は学校が終わると息せき切って横浜駅まで走って、汽車に飛び乗り、銀座にあった「小牧バレエ学校」に通った。勉強は好きなものにだけ夢中になった。 超得意な国語の時間、親鸞聖人の『異抄』の授業の時だった。  善人なおもて往生を遂ぐ
 いわんや悪人をや 有名なこの言葉を読んで、国語の先生が教壇から私をじっと見て言った時は武者震いがした。 「岸惠子さん、教壇に立ってあなたがこの言葉を説明してください」 私は嬉々として教壇に上がり、時間一杯、難解と言われる『異抄』の解釈をした。超優等生? 残念ながら違うんだな。 歴史も社会科も好きだったけれど、英語は苦手。数学に至ってはペケもペケ。 大好きだった素敵な数学の団琢磨先生には、お家に呼ばれてこっぴどくられた。咳き込みながら最後には笑って言ってくれた。 「好きなことをやれ。人生短いんだ。嫌いなものはやらなくていい」 私が社会人になった時、胸を病んでいた先生は、もうこの世の人ではなかった。 ことほど左様に、私は好きなものには夢中になり、苦手なものは放棄した。これは、一貫して私の生き方となった。 物語をつむぐ作家になりたかった私が、ひょんなことで女優という身分になった。大学まであきらめて、約6年間私は夢中で映画というものの虜になった。素晴らしい俳優仲間や、名監督、名画にも恵まれ、このまま、芸ひと筋の名女優になるのかな……と、ヒトは思ってくれたかもしれない。 私はそうはならなかった。 恋に落ち、映画も祖国も捨てて着いたパリは眩しかった。 24歳の私が受けた文化的、情緒的ショックはただならないものだった。 「カルチャー・ショック」なんぞという素っ気なくてお粗末な言葉では片付かない、深い狭間にはまり込んだ私はジタバタしてノイローゼになった。夫であったイヴ・シァンピはそんな私を、どんな時にも理解して、なんと寛容で心優しかったことか……。 その夫を離婚というかたちで退けた罰当たりな私は、世界に起こる様々に身を絡める生き方を、選んだ。

◆家族に会えない時間を過ごして 私の自伝的エッセイの後半は、映画とジャーナリズムの交錯した物語になる。国際ジャーナリストとして中東やアフリカで取材を重ねるなかで、私は2度ほど生命の危険を感じる羽目に陥った。 そんな母である私の不在を、娘のデルフィーヌはよく耐えてくれた。愚痴も言わず、芯の強い、奥床しい女性になってくれた。 離婚当時、私が父親でなく母親だったので、日本の法律は娘に日本の国籍をくれなかった!! かつて日本に滞在し、期限付きヴィザが2日過ぎてしまった時、出国審査で咎められ「刑務所行きだ」と言われた彼女は「こんなに愛しているのに、日本が私の国でないことは解った」と呟いた。私は胸が痛んだ。 この本の装幀や、挿画まで担当してくれた愛しい娘や、2人の孫に、私は3年近く会えていない。コロナの前には、「黄色いヴェスト運動」(2018年11月17日からフランスで断続的に続くマクロン政権への抗議活動)があって、私も彼等も旅行できないでいる。 忘れた頃、地球を襲うウイルスは、人間が新しいコミュニケーションや、他との交わり方を考える力をせせら笑いながら見守っているようだ。手強いコロナウイルス。世界中の人間が力試しをする時なのだろう。
岸惠子
https://news.yahoo.co.jp/articles/65f26d7cfa5ba0f6f7cd2ad02ec359086beef3d8?page=1

「それでも結婚したい…」窮地に立たされた眞子さまを救う唯一の方法

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

母子への“身体検査”を命令か
秋篠宮眞子さんが追い詰められている。
歌会始の儀」のため、皇居に向かわれる秋篠宮家の長女眞子さま=2021年3月26日、皇居・半蔵門[代表撮影]
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4月8日に小室圭が、母親と元婚約者との金銭トラブルについて詳細に説明した文書を公表したが、内容が母親側の身勝手ないい分に終始していると、メディアの反発を買ってしまった。
さらに、文書の中で、借りていないものを返すわけにはいかない、これは名誉の問題だと大見得を切っていたのに、「解決金を払う用意がある」といい出したため、言行不一致だとさらに反発を招いてしまった。
まだ未熟な若輩がやったことだとはいえ、法律家を目指す人間がこの程度の認識かと、呆れる向きがいたのもむべなるかなである。
さらに深刻なのは、文書の内容はもちろんのこと、解決金を払うといい出した裏には、秋篠宮眞子さんの意向があったと、秋篠宮家関係者が認めたことであった。
2人の結婚を巡る状況は好転せず、さらに悪化しているように見えるのである。
こうした背景を追い風に、週刊誌が小室圭の母親・佳代の“過去”を再びほじくり出し、中には元暴力団の人間と親交があったのではないかと報じるところまで出てきたのだ。
いまや、水に落ちた犬は叩けとばかりの報道合戦である。
週刊女性(6月1日号)が、ここへきて、秋篠宮が職員に命じて、佳代にまだ不祥事はないか探してくれといったと報じている。
「小室さん母子への“身体検査”を行おうと殿下はお考えなのだと思います。これ以上、小室家に問題がある場合“結婚を止める”といった選択肢もありうるでしょう」(皇嗣職関係者)
命を絶った父親のストレスの原因は…
週刊女性は、これまでも散々書かれてきた2つの件を持ち出すのである。
「1つには、小室さんの父親である敏勝さんと、そのご両親が次々と自ら命を絶っている点が挙げられます。'02年に敏勝さん、その1週間後に敏勝さんの父の善吉さん、その1年後には敏勝さんの母親も自ら命を絶ってしまったそうです。これだけ立て続けに自殺が起こった背景に何があったのか、訝しむのは当然だと思います」(皇嗣職関係者)
小室圭の父親、祖父だけではなく、祖母まで自死していたというのであるが、これは過剰報道というべきだと思う。
さらに、家族のために必死だった敏勝さんのストレスがたまってしまった原因は、佳代が引き起こした揉めごとだったという。
一級建築士の資格を持っていた敏勝さんは、マイホームを建てる計画を立てていました。その際、敏勝さんの両親に金銭的支援を頼んでいたところ、佳代さんが内装などにこだわって予算を大きくオーバーしたことが理由で揉め、嫁姑が仲たがいしてしまったのです。間を取り持っていた敏勝さんは、仕事のストレスも相まって心を病んでしまい……。その後、自宅を出て行方不明になった敏勝さんは、多摩川の河川敷で自ら命を絶ってしまったと聞いています」(同・前)
妻・佳代の金銭感覚のおかしさが夫・敏勝の神経を参らせたというのである。
頼ったのは“元暴力団関係者”だった
金銭トラブルを最初にスクープした週刊女性だが、さらに今回、佳代が元暴力団関係者との付き合いもあると報じている。それによると、敏勝とその父親がこの世を去った直後、佳代は驚きの行動に打って出る。
「『善吉さんの死後に問題となったのは、遺産を“誰が相続するのか?”について。佳代さんは“孫である圭も相続する権利がある”と主張したのです。旦那さんと義理のお父さんが亡くなり、親戚一同が悲しみに暮れる中だったので、冷たい人だと感じました。ただ、マイホームの件で敏勝さんの家族と揉めていた手前、佳代さんは自らが交渉のテーブルにつくことを嫌がっていましたね』(小室家の関係者)
そこで佳代さんが頼ったのが、懇意にしていた“元暴力団関係者”の男性・Aさんだ。週刊女性は彼に接触し、当時の話を聞いた。
『もともと小室さん親子は、当時私が営んでいた飲食店に週1くらいで来店する常連さんでした。敏勝さんが亡くなった後は頻繁に店に来て“お金がなくて生きていけない”と涙を浮かべていました。気の毒だったので食事をごちそうしたり、閉店時間を過ぎた後も相談を受けていました。
そんなとき、敏勝さんのご実家の遺産相続について“代わりに交渉してくれないか”と、私を頼ってきたのです。かなり昔のことですが、私が暴力団に関係していたこともあり、経歴を利用できると思ったのかもしれません』」
話をまとめたら「手を引いてください」
この話はこれまで幾度となく報じられたが、佳代が依頼した人間が元暴力団関係者だったというのは初出である。
「佳代さんは「夫の実家は遺産相続の話をしても相手にしてくれない」などと同情を誘い、Aさんは敏勝さんの実家に向かったのだが─。
『佳代さんから聞く話とはまったく違って、敏勝さんのご親戚たちは“きちんと対応します”と誠実に向き合ってくれる方々だったのです。安心した私は、その場で相続の話をまとめ、その後は佳代さんたちにも十分な遺産が入ったはずですよ。
しかし、相続の話が終わって間もなく、佳代さんはお金が入った封筒を持参して“手を引いてください”と言ってきたのです。意味がわからずに腹が立った私は、封筒はもちろん受け取らず、佳代さんとは絶交しました』(Aさん)」
話をまとめてもらったお礼におカネを持って行くのに、なぜ「手を引いてくれ」といったのか、以前から疑問に思っていた。
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だが、その人間がかつてその筋の人だと知っていて頼み、まとまると、後腐れがあると困るから手を引いてくれと、カネを持って行ったのだと分かれば、腑に落ちる。
“すべての責任を負わせる”と覚悟を決められた
少し前には週刊文春が、佳代の遺族年金詐取疑惑を報じてもいた。
暴力団の人間との付き合いは、一時的なものだったにせよ、秋篠宮家や宮内庁にとっては黙って見過ごせる話ではないだろう。
次から次へと、こうした“醜聞”が出るにもかかわらず、小室圭と結婚する気持ちの揺るがない娘に、父親の秋篠宮はある決心をしたと報じているのは女性セブン(6月3日号)である。
「『ご自身が関与できず、問題は混迷を極めるばかり。そんな中で秋篠宮さまは、愛娘である眞子さまに“すべての責任を負わせる”という覚悟を決められたようです」(皇室ジャーナリスト)(中略)『眞子さまはもはや皇室の一員ではなく、“小室家の一員”というお気持ちでおられるように思えてなりません』(前出・別の宮内庁関係者)
そんな眞子さまに、秋篠宮さまは“もうかばいきれない”と、ついに意を決された。
『今後、将来の天皇家としての信頼を回復するためには、秋篠宮さまに厳しい対応が求められるでしょう。結婚一時金はどこかへ寄付させる、眞子さまは皇室の行事に参加させないといった対応だけでは足りないかもしれません。世間が“何もそこまで……”と同情するほど厳しい対応をされてようやく、国民は秋篠宮さまのお気持ちに寄り添おうとするのでは』(前出・別の皇室ジャーナリスト)」
皇位継承有識者会議にも影響が
「例えば、“小室夫妻”をアメリカに住まわせ、もし孫が生まれても、もう日本に入国させないようにする。眞子さまの衣類や持ち物、思い出の品をすべて捨てる。そんな対応をされれば、ご一家への風向きも変わるのではないだろうか。
秋篠宮さまは、父親としてではなく『皇嗣』として、皇室全体や“将来の天皇家”である秋篠宮ご一家を守るご決断をされたのでしょう。しかし、最愛の娘を突き放すのは、想像を絶する葛藤と断腸の思いがあったはず。それを乗り越えられたのですから、勘当も辞さない強いご覚悟を感じます』(皇室関係者)」
皇嗣という立場から世間体を重んじ、可愛い娘を勘当するというのでは、まるでかつての新派大悲劇のようである。
だが、障害が高ければ高いほど恋は燃え上がる。秋篠宮夫妻の勘気も、心無いメディアの報道も、世間の冷たい視線も、眞子さんの強い決意の前には、決定的なものにはならないだろう。
しかし、この結婚問題は、秋篠宮家だけの問題ではなく、安定的な皇位継承の確保などの課題を論じる「有識者会議」にも少なからぬ影響を与えていると、週刊新潮(5月27日号)は報じている。
週刊新潮によれば、現状では女性天皇だけでなく、女系天皇にも賛成や肯定的な専門家が多いという。
日本大文理学部古川隆久教授は「女系天皇については賛成する」と述べており、東京大史料編纂所本郷恵子所長も「女系による皇位継承は先例がないが、合意や理解がとれるのならば伝統を更新して、その価値を再認識するというのは大きな意義を持つのではないか」と語っているという。
“小室さん的な男性”が接近してこないとも限らない
だが、皇室ジャーナリストはこうも語っている。
女系天皇の議論においても小室さんの存在はネックとなります。(中略)いったん制度が定まってしまうと、この先“小室さん的な男性”が女性皇族に接近してこないとも限らない。結婚によって皇室内に入り込めば、皇統はその男性へと移ってしまうおそれがある」
この問題については、やはり週刊新潮(3月11日号)がこう報じていた。
「現実味を帯びてきた場合、範囲とされるお三方の中で眞子さまが『第1号』となられる可能性が高いのは言うまでもない。さる皇室ジャーナリストが言う。
『この議論がなされる時、多くの国民はどうしても小室圭さんを思い浮かべてしまいます。さまざまな問題を抱えながらも十分な説明を果たさず渡米し、再三にわたる秋篠宮さまの呼びかけにも、今なお誠実に対応しようとしない。そうした男性が、議論の成り行き次第では女性宮家当主の“配偶者”として皇室入りを遂げてしまう――。世間が、反射的にそうした不安を抱くのはもっともだと思います』」
年額4575万円が夫妻に支払われることに
「現在の皇室典範では、女性皇族は婚姻によって皇籍を離脱することになっている。その際、『皇族としての品位を保つ』という名目で一時金が支給され、眞子さまの場合はおよそ1億4千万円とみられる。そして、女性宮家が創設されて眞子さまがご当主となられた場合は、一時金ではなく引き続き『皇族費』が支給されることになるのだ」
「『皇族費皇室経済法で定められており、独立の生計を営む親王は年額3050万円、親王妃にはその半額が支給されます。眞子さまと佳子さまには現在、独立の生計を営まない成年内親王として年額915万円ずつが支払われています。もし眞子さまが新宮家のご当主となられ、この規定に則るのであれば、年額3050万円が支給され、その後に小室さんと結婚することで彼も『圭殿下』として半額の1525万円が支払われることになります』(同)」
あわせて年額4575万円になり、原資は税金である。
カネの問題はともかく、将来的には、天皇皇后の娘である愛子さんが女性天皇になる道を、この結婚問題が閉ざしてしまうことになるとしたら、由々しき事態というしかない。
状況が悪化する中、フォーダム大学を卒業
もはや一結婚問題ではなく、大きな広がりを見せている深刻な事態に対して、四面楚歌ともいえる眞子さんと小室圭は、どう立ち向かえばいいのだろう。
この原稿を書いている時点で、小室圭がニューヨークのフォーダム大学を卒業したという報が舞い込んできた。
伝え聞いていたところによると、かなり優秀な成績だったというから、7月に予定されているという司法試験も合格して、晴れてニューヨーク州の弁護士資格を取得するのは間違いないようだ。
さらに、この問題の解決を急ぐ宮内庁側の事情もあるという。
天皇陛下の長女・愛子さんの誕生日が12月1日である。だが、その前日が秋篠宮の誕生日になるため、この結婚問題が決着していないと、秋篠宮の誕生日会見の発言次第では、また炎上しかねないのだ。
そうなれば愛子さんの晴れの日に影響が出かねないから、その前までに結婚問題に決着をつけておきたいというのである。
起死回生策は一つしかない
残された日にちはごくわずかしかない。
ここまでくれば、状況を好転させる起死回生策は一つしかないと、私は考える。
秋篠宮眞子さんが1人で会見を開くのだ。妹の佳子さんが一緒ならばなおいい。小室圭は参加させない。
記者からの質問は事前に提出してもらって、その場での質疑応答はなし。
そこで、小室圭との出会いから、結婚を決意した経緯、納采の儀が延期になってからの3年間に考えていたこと、小室圭への変わらぬ思いについて、真摯に語るのだ。
小室圭の母親と元婚約者との金銭トラブルについても、国民に心配をかけたと詫び、必ず誠意をもって解決すると誓う。
父・秋篠宮と母・紀子さんに多大な心配をかけたことを深く謝罪し、両親への尽きぬ感謝の気持ちを述べ、これからの自分たちの人生設計について語るのだ。
皇室に在籍しているままでは会見できないのならば、皇籍を離脱して開けばいい。
そうすれば必ず世論は変わる、歴史は動く、愛は勝つ
秋篠宮眞子さんにその勇気はあると、私は考えている。(文中一部敬称略)
元木 昌彦ジャーナリスト