20代で母が認知症と診断された女性の壮絶人生

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

父の退職金が消えた?
静岡県在住の藤本弘美さん(仮名、40歳)は、短大進学をきっかけに大阪でひとり暮らしを始めたが、2002年、23歳のときに静岡の実家に戻った。その頃父は62歳、母は58歳。60歳で定年を迎え、再雇用を経て、家にいることが多くなっていた父は、母の異変に気づく。
退職金が振り込まれているはずの「通帳を見せろ」と言ったところ、「お金なんてないよ」と母。父は自分で通帳を探し始めるが、いつもあるはずの場所にない。カードや印鑑も見つからない。家中探して、やっと通帳は見つかったが、退職金はほとんど残っていない。父が「どこへやった?」「何に使った?」と聞いても、母は言い訳をするか、つじつまを合わせようと必死で取り繕うだけ。
部屋からは、怪しい機械のパンフレットや申込書、保険の契約書などが見つかり、どうやら必要のない機械や保険を複数契約してしまったらしい。父は、母が契約してしまった保険を解約しようと思ったが、肝心の保険証書がない。契約書から保険会社を割り出し、何とかいらない保険を解約。見つからない銀行の通帳やカード類は、再発行の手続きをした。
藤本さんが大阪にいる間も、父から何度か「母さんがおかしいから帰ってこい」と言われていたが、年に数回帰省するときには、とくにおかしいとは思わなかった。実家に戻った頃は、母はまだ料理ができていて、母が漬け、母の字で「平成14年6月」と書かれた梅酒が残っている。
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しかし、藤本さんが近所の会社に勤め始めると、母が作るお弁当の内容がだんだんおかしくなっていった。2段になった弁当箱のうち、ご飯が詰められた段はいいが、おかずが詰められるはずの段には、唐揚げが2個入っているだけでスカスカ。しかも唐揚げはレンジで温めすぎたのか、固くカリカリになってしまっていた。藤本さんは異変を感じつつも、「忙しくて温め時間を間違えちゃったのかな」と思った。
ところが、買い物に行くと同じものを何個も買ってきたり、通い慣れた道なのに、迷って家に帰ってこないことなどが頻繁になる。
7歳年上の兄が関東から帰省したとき、すぐに認知症を疑った。家族全員で病院へ連れて行った結果、母は若年性アルツハイマー認知症と診断される。2006年のことだった。
母が認知症と診断されてからは、食事の支度は父の担当に。以前は自分で使った食器も片付けない人だったが、NHKの「今日の料理」を欠かさず見、本も定期購読。どんどん料理を覚えていった。ところが、なぜか母はそれが気に入らない。「夫婦なんてしょせん他人よ。お父さんが作ったものなんて食べない」と言って外へ飛び出していってしまう。
「ヘルパーさんや私にはいいのに、父に対してはいつも不機嫌で、カレーを食べるスプーンとお皿のぶつかる音が嫌だとか、いろいろ文句をつけて外に飛び出しては、コンビニでおにぎりを買って食べていました。もしかしたら、子育てで忙しかったときに父が手伝ってくれなかったとか、若い頃から積もり積もった嫌な記憶や恨みつらみが、認知症になったことで抑えられなくなったのかもしれません」
基本的に、日中は父。夜、仕事から帰宅した後は、藤本さんが母の世話をした。
「『いきなり変なこと聞くようだけど、あんたの親って誰だっけ?』と言われたときはショックでした。ずっと名前は呼んでくれていましたが、だんだん言葉が出てこなくなり、2008年頃にはトイレができなくなりました」
食事はできるが、三角食べはできない。2~3歳の子どもに食べさせるように、「次はこれを食べようね」と声をかけながら、おかずを御飯の上にのせてあげた。汁物はこぼしてしまうので、お椀を手で支えて、口に運んであげなければならない。毎晩帰宅してから、2時間ほどかけて食べさせていた。
娘の誕生日もわからなかった
「29歳の私の誕生日に、ふと『今日何の日か知ってる?』って聞いたんです。でも母は、『知らない、わかんない』。『お母さんが私を産んだ日だよ』と言ってもわからないようで……。忘れちゃったんだって思うと寂しいですが、『受け入れるしかない、自分が覚えていればいい』って思うようにしました」
夜中にトイレで起こされるのは日常茶飯事。藤本さんは仕事との両立でクタクタだった。
「20代後半って、周囲は結婚・出産ラッシュ。私がちょっと介護がつらいと言えば、『子育てだって大変だよ』と返されて、やるせない気持ちになりました。父には夜は休んでほしくて、私が頑張らなきゃと思ってたんですが、睡眠不足と理解者がいない寂しさから、母につい当たってしまったこともありましたし、思い詰めて、精神的に病んでしまったこともありました」
母の介護があるため、会社の飲み会は断ることが多かったが、数回参加したことがある。深夜に藤本さんが帰宅すると、父が母に怒鳴る声が家の外まで響いていて、一気に酔いが覚めた。父に怒られて家を飛び出した母が帰ってこないので探しに行ったところ、数駅先にある自分の実家へ帰ろうとして迷子になっていたこともあり、「父1人に抱えさせてはダメだ。私はなるべく家にいなくちゃ」と思った。
やがて藤本さんは、インターネット上に同じような経験をしている人を見つけ、悩みを相談し合うように。その頃始めたブログは、大切な心の拠り所となった。
2013年。父が脳出血で倒れた。73歳だった。父が倒れた段階で、母は特別養護老人ホームに入所。仕事と両親の介護の両立は、1人では不可能だと考えたからだ。以前から申し込んでいた施設に事情を話したところ、運よく空きがあり、快く受け入れてもらえた。
「2つの特養に申し込んでいて、1つのところは2回ほど空きが出たのですが、職員さんの対応が気になっていたことと、私が母ともう少し一緒にいたいと思ったことから断ってしまいました。父は『それならもう少し家で見ようか』と言ってくれましたが、その頃よく、『体がしんどい』『このままだと俺に何かあったらいけない』とこぼしていて、今思うと限界だったのかもしれません」
父は一命をとりとめたが、右半身に麻痺が残った。
34歳のとき、妊娠が発覚
妊娠が発覚したのは、藤本さんが34歳のときのこと。藤本さんは同じ会社の同僚と交際していた。
「両親のことを背負って生きる覚悟みたいなものを決めていたので、『結婚なんてしていいのかな』『私が家を出たら、父は大丈夫かな』と悩みました。でも、『父にウェディングドレス姿を見せたい』という思いもあって……。結局、あの時結婚して娘を産んで、よかったと思っています」
2014年に娘を出産し、父の希望により、実家から車ですぐの場所に新居を構える。
父は退院して家に戻ったが、右半身の麻痺で料理ができない。そこで、父が『きょうの料理』を見て食べたいものを決めると、藤本さんが土曜日に必要な材料を買いそろえ、その材料でヘルパーさんに作り置きをしておいてもらうことに。
そして藤本さんは、産休・育休を経て、娘が1歳になる年に仕事に復帰。
「復帰したばかりの頃は、新しい仕事を任されたこともあり、正直きつかったです。父はメモができないからと言って、早朝だろうが勤務中だろうがお構いなしに電話してきましたし、娘はすぐに熱を出すし……。この頃は毎日が忙しすぎて、自分の記憶はほとんどありません」
夫は料理以外の家事・育児はやってくれる。産後間もない頃、母の通院に付き添いが必要なときも、仕事を休んで娘を預かってくれた。
「夫は子育てには協力的だし、両親の介護にも理解があると思います。出産前、『祖父母が近くにいて、子育てのサポートが受けられる家が多いけど、うちはないからね。私は両親に何かあったら行かなきゃならないから、この子のことよろしくね』ってよく話したんです」
そして2015年、母が水頭症で入院。水頭症は脳に水がたまって脳を圧迫するため、認知症の原因かもしれないと言われたが、手術をしても認知症の症状はよくならなかった。
一方父は、自宅で転んで起き上がれないことや、体調が悪い日が増えていく。藤本さんは、仕事が終わって娘を迎えに行った後や、娘を寝かしつけた後に実家に行き、父の世話をすることが多くなっていった。
2016年秋、父が腸閉塞で入院。
ほぼ同じタイミングで娘が胃腸炎になる。娘の看病は夫の協力を得た。
父はしばらく絶食し、症状が改善したので退院。自宅で様子を見ていたが、約2週間後に再発。運の悪いことに、吐いたものが肺に入り、誤嚥性肺炎を併発してしまう。前回の入院で絶食し、抵抗力が弱まっていた父は、すぐに危篤状態に陥った。
ちょうどその頃、夫は体調を崩して寝込んでいたため、娘を預けられない。仕方がないので、父の主治医の話を子連れで聞いた。夜9時を過ぎていて、娘は背中で眠っていた。
「会わせたい人がいたら呼んでください」と言われたが、母はもう父のことがわからない。母を呼びに行っているうちに父に何かあったら……と思うと、父のそばを離れられなかった。
「夫婦のあり方を考えさせられました。定年してせっかく夫婦で過ごす時間ができたと思ったら、妻が認知症……。夫婦で老後を元気に過ごさせてあげたかったと思いました」
多忙と心労が重なり、藤本さんも体調を崩していた。何度か吐いたし、意識も朦朧としていたが、「親戚も来る。対応しなきゃ」と気が張っていたのか、何とか葬儀までやり遂げた。
「結婚後も同居していれば、父はもっと長生きできたかもしれないと後悔しています。でも、少しでも離れることで、私は自分の生活とのメリハリがつけられた。どちらがよかったのか、答えは出ません」
肺炎になった父は、酸素不足のためチアノーゼに。苦しさのあまり激しく悶えてベッドから降りようとするところを、看護師や兄たちみんなで押さえた。心拍や脈拍を計測する機器の電子音が耳に残り、以降、銀行やコンビニのATMの音を聞くと、つらくなって耳を覆った。
「私はお酒が好きだったのですが、両親に何かあるといけないからと思ってずっと飲めずにいました。その反動なのか、父が亡くなった後、眠れなくてお酒を飲むように……。気がついたら明け方で、仮眠をとってまた仕事に行く、という毎日を過ごしていました」
39歳で不妊治療を開始
父の一周忌が終わった2018年、藤本さんは2人目を考え始めた。
「父が亡くなって半年ほど過ぎた頃、少しずつ周囲に目を向けられるようになって、気づいたら39歳。保育園のママ友はいつの間にか下の子を産んでいて、よく考えたら娘の卒乳もトイレトレーニングもできていなくて、何やってたんだろう私……と思いました」
藤本さんは不妊治療を開始。1回目の体外受精は失敗に終わった。
「親の介護をしてみて、つくづく両親の老後を1人で背負うのはきついなと……。父が危篤になったとき、病院や葬儀の手続き、親戚への連絡、通夜葬儀の喪主やお金のことなど、やらなきゃならないことがたくさんあって、兄がいてよかったと思ったんです」
治療開始時の妻の年齢が40歳以上43歳未満の場合、通算3回まで助成金が降りるため、3回までは挑戦するつもりだ。
「父が亡くなった年は、1年で60日休みました。居づらくなる雰囲気もなく、理解のある会社で感謝しています」
不妊治療の通院が加わり、相変わらず有給休暇の消費は激しい。母のところへは、イベントや通院付き添いなどで1~2カ月に1回ほど行っている。
「母に会うと、どうしても両親が元気だった頃を思い出してしんみりしてしまうんですが、そんなとき娘に『大人なのに何でいつまでもクヨクヨ言ってるの? もういいでしょ、お母さんなんだからしっかりしてよ!』と言われるんですよ」
娘は生きる希望
介護や仕事でつらいとき、娘が心の支えになった。
「逃げ出したくなったときはいつも、妊娠がわかって悩んだときの決意を思い出しました。娘は生きる希望です。『この子を守らなきゃ』と思うと強くなれました。ずっと両親優先で、自分を二の次に考えていたけれど、妊娠は自分の人生を後悔しないよう、ちゃんと考えるきっかけになりました」
実家はまだ父が暮らしていたときのままになっており、時々様子を見に行く。
「親に子育てを手伝ってもらうことはできなかったけれど、なかなかできない経験が若いうちにできて、親に勉強させてもらったと思っています。いろいろな人に、『親は先に亡くなるものだから、親の介護を優先してたら、亡くなったときの喪失感が大きくなるよ』と言われますが、子育てだって同じ。私の場合は両方あるので、どちらにものめり込みすぎずに済むと思うんです」
そんな藤本さんに、将来の夢を聞いた。
「私の場合、20代で母の介護が始まったので、独身生活を謳歌する暇もありませんでした。だからその分、シニアライフを楽しみたいですね。私も夫も車が好きなので、2人乗りのオープンカーでドライブ旅行とか憧れます」
子どもが手を離れた後のことを考えるなら、2人目を考えるのは矛盾しているかもしれないが、「授からなかったら授からなかったときで、そんな将来もいいなと思います」と笑った。