アルツハイマー病「根本治療薬」が迎えた正念場

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

ワクチン療法の開発
アルツハイマー病の根本治療薬の開発が、ワクチンによって開けたと言うと、どういうことなのか目を丸くする人は多いだろう。
新型コロナウイルスのワクチンをみてもわかるように、ワクチンは弱毒化した病原体を人体に注射することで生まれる抗体を利用した予防法である。抗体ができると新たな病原体が侵入してきてもそれとくっつき、無毒化する。
アルツハイマー病は、アロイス・アルツハイマーというドイツの医者が100年以上前に発見したときから、老人斑と呼ばれる神経細胞の外にできるシミと、神経細胞内にできる神経原線維変化という糸くずのような固まりを病変とすることが知られていた。これらができると、神経細胞が死に、認知症とよばれる症状が出てくるのである。
老人斑は、アミロイドβとよばれるタンパク質が固まってできたものだが、まずこれができて、次に神経原線維変化が出てくる。アミロイドβ─老人斑─神経原線維変化─神経細胞死という一連の流れ。
デール・シェンク。チェスはプロなみの腕をもっていた。写真は2002年サンフランシスコのラボで。2016年9月すい臓がんのために死去。
そのドミノの最初の1枚を抜いてしまうと考えた天才科学者がいた。デール・シェンクというサンフランシスコにある医療ベンチャーのリード・サイエンティストだ。
デール・シェンクは、アミロイドβが、原因なのであれば、そのアミロイドβをワクチンとして注射してしまえばいいと考えたのだ。それで人体に抗体が生まれれば、アルツハイマー病は治るのではないか?
当時、その医療ベンチャーだけが持っていたアルツハイマー病の症状を呈するトランス・ジェニックマウスを使って、実験をしてみた。
そうすると、老人斑はマウスの脳からきれいさっぱりと消えたのだった。それが、1999年7月8日号の『ネイチャー』に発表されると科学界のみならずジャーナリズムを巻き込んだ大騒ぎになった。
ほかの科学者が相次いで、ワクチンを注射したトランス・ジェニックマウスで、迷路を使った実験をする。すると、認知機能の低下も抑えられるという実験結果まで得られたのだった。
2000年代の初頭、アルツハイマー病は治る病気になる、と世界は沸き立った。
AN1792の失敗から
デール・シェンクらが開発したワクチンAN1792の治験はアメリカで行ったフェーズ1を通過し、欧州にまで広げたフェーズ2に進む。
が、ここで急性髄膜脳炎という深刻な副作用が、治験を行った各病院から報告されたのである。症状は、頭痛や発熱、吐き気、患者によっては錯乱を起こし、昏睡状態に陥る患者もいた。
半身が一時的に不随になる患者や、失語症に陥る患者もいた。
ワクチンは免疫反応を強く出すために、アジュバントという物質をつけるのだが、それで自らの脳細胞を攻撃してしまうということが起こったらしい。一種の自己免疫疾患だ。治験を行っていたエラン社はAN1792の開発を中止する。
ロジャー・ニッチ。チューリッヒ大学医学部の附属病院はAN1792の治験サイトのひとつだった。AN1792の失敗から自然抗体「アデュカヌマブ」を発見
AN1792の治験を行ったサイトのひとつにチューリッヒ大学医学部があった。ここでも、30人の患者のうち3人の患者が急性髄膜脳炎を発症したが、ロジャー・ニッチ、クリストフ・ホックはこの治験に入った30人の患者をその後1年経過を観察し、追跡調査をするのである。
すると、意外なことがわかった。インフルエンザの予防接種をみてもわかるように、予防接種をしても免疫がつかない、つまり抗体が生まれない人がいる。AN1792の場合もそうだったが、この抗体が生じなかった10人は、その後急速に認知症の症状が悪化した。しかし、抗体が生じた20人の患者は、その後も認知機能の衰えがほとんど進まなかった。
ここから、ワクチンではなく、抗体そのものを投与するという発想が生まれるである。
そのころ、ほかの学者が、アルツハイマー病になりにくい人は、アミロイドβにたいする自然抗体をもともともっていることを示唆する論文を発表していた。ロジャー・ニッチとクリストフ・ホックは、大学の付属病院に保管してある1000以上の検体から、老齢になってもアルツハイマー病にならなかった人を選んで調べていき、ある抗体を発見する。
それが、後の「アデュカヌマブ」なのである。
バイオジェン、乾坤一擲(けんこんいってき)の賭け
アメリカのボストンにある製薬会社バイオジェンには「ドラッグハンター」と呼ばれる男がいた。小さな医療ベンチャーの開発している薬に目を配り、有望なものがあると、その権利を買い上げ、大規模な治験を行うのである。
ルフレッド・サンドロック。”ドラックハンター”の異名をとる米国製薬会社バイオジェンの役員
この「ドラッグハンター」アルフレッド・サンドロックチューリッヒ大学のロジャー・ニッチは1990年代、ボストンのハーバード・メディカル・スクールで同じ師についていた同門だった。そのことから、サンドロックは、ニッチとコンタクトをとり、ニッチの発見した「自然抗体」の開発の権利を買い取る。
「アデュカヌマブ」と名付けられたその自然抗体は、バイオジェンが2012年10月から行ったフェーズ2で、認知の面で初めて評価項目を達成した薬となった。
そしてフェーズ3。
アルツハイマー病の治験は莫大な費用かかかるようになっていた。というのは、それまでのほかの薬の治験が失敗したのは、患者を適切に選んでいなかったためと考えられたからだった。PET(陽電子放出断層撮影)によってアミロイドがたまった患者、本当のアルツハイマー病の患者、しかも初期の患者を選ぶ設計の治験が必要となっていた。PETは2002年に開発された技術だが、高額の費用がかかる。
その費用は、探索研究から臨床までを含めて1薬当たり2000億から3000億円かかるようになっていた。
AN1792の治験に失敗したエラン社は失敗の痛手から経営が悪化、他社に買収され2013年に消滅してしまっていた。業界第2位のファイザーは、アルツハイマー病の薬の成功率があまりに低いこと(2002年以来、承認されている薬はない)から、神経疾患分野の創薬からは撤退することを2018年に表明していた。
それほどアルツハイマー病の創薬はリスクの高い事業だったのである。
「アデュカヌマブ」のフェーズ3はEMERGEとENGAGEという被験者総数3210名のふたつの治験が並行して行われたが、共同開発に手をあげたのが、日本の製薬会社エーザイだった。エーザイは1990年代に対症療法的な薬だが、抗認知症薬の「アリセプト」を開発し、一時はこの一薬だけで、年間3000億円以上の売り上げをあげていた。しかし、その「アリセプト」の特許も切れ、特許の崖と言われる売り上げ減に苦しんでいた。
2社ともに、社運をかけた開発だ。アルツハイマー病の患者は全世界で5000万人。日本でも400万人いる。もし「承認」されれば、リスクを回収し、莫大な売り上げとなる。
矛盾する治験結果
さて、そのフェーズ3の治験結果が2019年末までに出たが、これが物議をかもしている。1500人以上の被験者数があるふたつの治験があい矛盾する結果になったのだ。EMERGEでは認知機能を含むすべての評価項目を達成したものの、ENGAGEでは、プラセボより悪くなったグループもある、というものだった。
バイオジェンの主張は、0、1、3、5、10ミリグラム投与の各グループで、高容量のものだけをみれば、ENGAGEでも結果は出ている、というもの。
これをもとにFDAと折衝を続け2020年7月、ついに新薬申請にこぎつけた。以来、バイオジェンとエーザイの株価は乱高下している。
FDAが11月に開いた外部の有識者からのアドバイスを求める「諮問委員会」で、サイト上に事前にFDAのペーパーがアップされると、バイオジェンの株価は45パーセントも上昇した。その文書でFDAは、バイオジェンの治験の結果は「明白なものであり、説得力がある」としていたのだ。翌日開けた東京市場エーザイの株価はストップ高となった。
しかし、11月6日にオンラインで開かれた「諮問委員会」の評決で、11人の委員のうち委員長1人しか、承認を推薦するという投票をしなかったことがわかると、株価は暴落。
「諮問委員会」の評決にFDAは縛られるものではないが、「諮問委員会」をはずみにして一気に承認にもっていこうとしたFDAのもくろみは外れたのだった。
矛盾する2つの治験結果に対してFDAの判定は
治験のデータが完全でないのは明白だ。矛盾する2つの治験結果がある。ではもう一度治験をすることをFDAは勧告するのか?となるとあと4年はかかる。そもそももう1本の治験をするだけの体力がバイオジェンとエーザイにあるか?
大きな影響力を持つ研究者や介護者の団体アルツハイマー協会が、「諮問委員会」のドケットによせた意見書にはこうある。
<データが不完全だという科学コミュニティの議論はわかります。しかし治療法のない現在、可能性のある治療法へのアクセスが断たれるということは、何百万人もの患者、その配偶者、母親、父親、祖父、祖母、おじ、おば、友人たち、地域の人たちにとって、とりかえしのつかないことなのです。そうした比較衡量のうえで、われわれは、この薬の「承認」を求めます>
FDAへの申請に続き、10月21日に欧州薬品庁、12月10日には日本の厚生労働省にも「アデュカヌマブ」の承認申請が、バイオジェンとエーザイによってなされた。
FDAによる運命の判定は、2021年3月7日までに下されることになっている。