死が迫ったとき、「信仰」は本当に恐怖を和らげているのか

下記の記事は日刊ゲンダイデジタルからの借用(コピー)です


M先生は、出身高校も大学も同じ先輩でした。私が病院に勤めてから初めてお会いし、勤務する科は違いましたが、同じ病院で30年以上たくさんご指導いただき、言い尽くせないほどお世話になりました。

 あるとき、私は仕事がうまくいかずに病院を辞めたいと思って、M先生の部長室を訪ねたことがありました。私が話を切り出す前に、M先生は明るい顔でこんなお話をされました。

「CT画像と原体照射、国際学会でゴールドメダルをいただくことになったよ」

「今、これからのがん治療で、こんな夢を持っているんだ」

 先輩がこれほど頑張っているのに……私は暗に励まされ、何も言い出せないまま、すごすごとM先生の部屋を後にしたことを思い出します。

 M先生は、定年退職された後にステージ3の肺がんを患われ、手術を受けた後、ご自身が専門とされていた放射線治療を受けました。治療後5年が経過して肺がんからは完治されましたが、それから3年ほどで亡くなられました。

■寄稿文の掲載誌が送られてきた

 M先生は生前に、ある宗教の機関誌に次のような文章を寄稿されていました。

「1年に2回、CTなどの画像診断と血液検査を受けた。検査の結果がはっきりするまで、心が揺れ動き、特に手術後1年目、2年目は不安で頭がいっぱいであった。(中略)……発病以来を振り返り、肺がんの告知と手術を冷静に受け止め、さらに手術後の膿胸の苦しみに耐えられたのは真宗信心の支えがあったからである。がんの再発の不安と死の恐怖が去来するなか、『いつも如来さまと一緒』の思想が心が安らぐのである。真宗信者に届く心の響きである。(中略)……がんの治療法が進んでも、がん患者に特有の心の悩みと死の恐怖は簡単には救えないであろう。心の安らぎとその立脚地としての信心の大切さが求められる」

 お通夜に参列した際、私はM先生が宗教を信仰されていることを初めて知りました。長く、親しくお付き合いさせていただいていても、一度も宗教の話をされたことがなかったのです。

 しかし亡くなる直前になって、ご自身が寄稿された文章が掲載された小冊子を出版元から私に送ってこられました。M先生は、病の苦しみを、ご自身のがん経験を吐露し、私に伝えたかったことがあったのでしょう。ただ少なくとも、私に信仰を勧めているわけではないと思いました。

 ご自身で書かれているように、M先生は苦しいときは「いつも如来さまと一緒」と思われていたのだろうか……とも考えました。

 仏教学者の鈴木大拙氏の「妙好人」という講演があります。船大工からゲタ職人になった浅原才市という方のお話で、ゲタを削るときに自分が削っているのか、南無阿弥陀仏が削っているのか分からなくなる。自分が南無阿弥陀仏そのものになっていると話される……と紹介しています。

 M先生の言われた「いつも如来さまと一緒」も同様で、本当の真の仏教の信仰というのは、そういうものなのではないか。私はそう思いました。

宗教は永遠の命を主張し、だから「死は怖くない」と言い続けてきました。上智大学で長らく死生学の教壇に立ち、神父だったアルフォンス・デーケン先生が、「キューブラー・ロスの死の5段階の後には、神の下に行ける『希望』があるのです」と話されていたのを思い出します。

 お寺、神社、教会などは、宗教を真に信じていなくとも、ひとつの安らぎになっているのは確かなようにも思います。しかし死の直前になったとき、本当に恐怖を和らげているのか。信仰のない私には、それ以上は分かりません。

 日本人のアンケート調査では、多くの方が「仏教的無宗教」と回答しています。日本の文化として信仰のあつい方が少ない現状で、宗教なしで死の恐怖を乗り越える術を探す――。そんな探求を私はまだ続けています。

佐々木常雄
東京都立駒込病院名誉院長