izumiwakuhito’s blog

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岸惠子「孤独を満喫した先の自由。〈好きなことをやれ。人生短いんだ〉恩師の言葉を胸に」

下記はヤフーニュースからの借用(コピー)です

婦人公論』6月8日号の表紙は女優で作家の岸惠子さんです。このたび、88年の人生を振り返る自伝を上梓した岸惠子さん。結婚に伴い渡仏、女優業に邁進しながら国際ジャーナリストとしても活躍するその生き方は常に情熱的。新しい「いま」を手に入れるためにいくつもの決断をしてきました。発売中の『婦人公論』から記事を掲載します。 【写真】パリのカフェを楽しむ岸惠子さん * * * * * * * ◆「5月1日」へのこだわり ちょうど1年前、2020年の5月いっぱい、『日本経済新聞』に連載した「私の履歴書」が思わぬ好評をいただいて、沢山の出版社から自伝として本にすることをお勧めいただき、結局、旧友の推薦で岩波書店にお願いすることになった。 新聞の連載は、枠が限られていたので、《本にするなら思いのたけを書きたい》というたいした意気込みで書き始めたのが、8月ごろだったと思う。どうしても今年、2021年の5月1日には発売の運びにしたい、という思いにとらわれてしまった。 けれど、書いた文章を幾度も読み返す癖があって、その度に手を入れたり、書き直したりするので捗らない。間に合わないのではないかとかなり焦ったりした。5月1日は私の独立記念日なのだ。
婦人公論』6月8日号の表紙に登場した岸惠子さん
◆二者択一の覚悟を決めて卵を割る 『岸惠子自伝』の副題にしたように、「卵を割らなければ、オムレツは食べられない」。居心地のよい生活を壊してでも、未知の世界に踏み入ってみろ。というフランスの諺(ことわざ)なのだ。 私はこれまでの人生で、3回、慣れ親しんだ卵を《えいッ》とばかりに割った。 その1回目が、1957年の5月1日なのだった。 ニッポンという恋しい祖国や、両親や、日本映画という私の生き甲斐である大事な卵をポンと割って、医師であり、映画監督でもあるイヴ・シァンピ氏一人を頼りに、身一つで祖国を去りフランスはパリに行った。24歳の時だった。 その頃の日本は海外旅行が自由化されていなくて、自分のお金で飛行機の切符さえ買えなかった。すべてをイヴ・シァンピ監督がギャランティ(保証)してくれての旅立ちだった。二度と日本へは帰ることが出来ないかもしれない、というほどの覚悟だった。 彼との出会いは、日仏合作映画『忘れえぬ慕情』への出演。 私より11歳年上だった彼は、第二次世界大戦の末期には医科大学の学生。ナチス・ドイツに占領されていたパリから、ロンドンへ亡命していたドゥ・ゴール将軍の「自由フランス」の合言葉に共鳴して12人の医科大学生と一緒に地下運動に入り、大勢の負傷者を救って沢山の勲章をもらった医師でもあった。 彼には、戦争をかいくぐってきた人の、強靭な静かさがあった。

岸惠子自伝卵を割らなければ、オムレツは食べられない』岩波書店
ユーモアと素晴らしい話術を持った、骨太そうな人柄に私は次第に惹かれていった。合作映画の撮影が終わる頃、彼が言った。 「好奇心の強いあなたに日本以外の国々を見せてあげたい。今の日本では、海外旅行が禁じられている。僕が招待する。アフリカや、中東、ソヴィエト連邦も見せてあげたい。地球の上は、日本のように平穏な国ばかりではないことを見せてあげたい」 私は、《これって、もしかしたらプロポーズ?》と思い、たぶん複雑な表情をしたと思う。その私を見て、彼は笑った。本気と、からかいの混じった複雑な笑いだった。 「フランスに、『卵を割らなければ、オムレツは食べられない』という諺がある。僕の招待でいろいろな国を見て、やっぱり日本がいいと思ったら帰ってくればいい。卵は二者択一の覚悟が決まった時に割る方がいい」 「そんな勝手をしていいの?」と私はびっくりした。 「あなたは自由なんだよ。あなたの意志を阻むものがいるとしたらそれはあなた自身だけだ」 私は恋に落ちた。 人間とは、哀しくもあり、不思議な生きものでもあるのだ。 あれほどの大決心をして、愛するものすべてを捨てて得た結婚生活に、私は一方的に終止符を打ってしまった。 離婚を決し、18年もの間、私のすべてを愛しみ育んでくれたイヴ・シァンピ邸を出たのが、また、1975年の5月1日だった。 私は熟慮もせず、我武者羅な負の情熱に突き動かされて、大事な2つ目の卵を割ってしまった。 何故か? それは『自伝』をお読みいただきたい。 これって少し狡いかな? 仕方がないでしょう。短期間に夜昼をおかず、不眠も疲れもさておき書き綴った長い長い物語を、かいつまむのは酷というものです。
◆子供をやめると決めたあの日 私はこの『自伝』の中で、昭和初期の港町横浜を覆っていた時代風景と、私を取り巻く大人たちの考え方や、生活ぶりを書いたつもりなのだ。340頁近く書いたのに、書きこぼれた様々がある。 88年も生きてきた私が、思いのたけを書いたら、上、中、下巻になって、読む方たちがうんざりなさることだろう。 私が一貫してテーマにしたいことは《孤独》。そしてその取り込み方なのだ。孤独とは一人ぼっち、になることではない。 大勢の中にいても、一人孤独を満喫することが出来れば、そこには自由があるはず。人間は生まれた時も、死ぬ時も一人。だったら、その別れがたい孤独を、自分流に取り込んで、自由の醍醐味を味わう。私の大雑把な考えです。 幼い頃の私は、絵や字を書くのが好きだった。大人になったら物語を書く人になりたいと思っていた。思っていただけではなく小学生の時から、綴り方の域を出ない、幼稚な物語を書いて楽しんでいた。それらが「家」というすべてのものと共に焼け落ちて消えてしまったのは、第二次世界大戦末期の昭和20年、5月29日の横浜大空襲だった。75年も昔のこと。自伝には、その時の生き地獄の有様を書いた。 私は、華奢な体に似合わず私と一緒に木登りをしたり、ダジャレを連発する面白い母が大好きだった。その母が、襲いかかるB29爆撃機の大軍にも怖けず、12歳の私を置いて、留守にしていた隣家に残された赤ちゃんを助けに駆け出した時は、心底凄いと思ったものだった。 「公園に逃げなさい。松の木のところで待っていて!」 その松の木に登って、私は直撃弾で我が家が燃えるのを見ていた。 防空壕に入った人たちは、爆風と土砂崩れでほとんど犠牲になった。 松の木にしがみつき、ガタガタ震えながら「12歳、私は今日で子供をやめた」と決めた。
◆好きなものには夢中に、苦手なものは放棄 私は神奈川県立平沼高校で舞踊サークルや演劇サークルに入り、土・日は茶華道、週3回は学校が終わると息せき切って横浜駅まで走って、汽車に飛び乗り、銀座にあった「小牧バレエ学校」に通った。勉強は好きなものにだけ夢中になった。 超得意な国語の時間、親鸞聖人の『異抄』の授業の時だった。  善人なおもて往生を遂ぐ
 いわんや悪人をや 有名なこの言葉を読んで、国語の先生が教壇から私をじっと見て言った時は武者震いがした。 「岸惠子さん、教壇に立ってあなたがこの言葉を説明してください」 私は嬉々として教壇に上がり、時間一杯、難解と言われる『異抄』の解釈をした。超優等生? 残念ながら違うんだな。 歴史も社会科も好きだったけれど、英語は苦手。数学に至ってはペケもペケ。 大好きだった素敵な数学の団琢磨先生には、お家に呼ばれてこっぴどくられた。咳き込みながら最後には笑って言ってくれた。 「好きなことをやれ。人生短いんだ。嫌いなものはやらなくていい」 私が社会人になった時、胸を病んでいた先生は、もうこの世の人ではなかった。 ことほど左様に、私は好きなものには夢中になり、苦手なものは放棄した。これは、一貫して私の生き方となった。 物語をつむぐ作家になりたかった私が、ひょんなことで女優という身分になった。大学まであきらめて、約6年間私は夢中で映画というものの虜になった。素晴らしい俳優仲間や、名監督、名画にも恵まれ、このまま、芸ひと筋の名女優になるのかな……と、ヒトは思ってくれたかもしれない。 私はそうはならなかった。 恋に落ち、映画も祖国も捨てて着いたパリは眩しかった。 24歳の私が受けた文化的、情緒的ショックはただならないものだった。 「カルチャー・ショック」なんぞという素っ気なくてお粗末な言葉では片付かない、深い狭間にはまり込んだ私はジタバタしてノイローゼになった。夫であったイヴ・シァンピはそんな私を、どんな時にも理解して、なんと寛容で心優しかったことか……。 その夫を離婚というかたちで退けた罰当たりな私は、世界に起こる様々に身を絡める生き方を、選んだ。

◆家族に会えない時間を過ごして 私の自伝的エッセイの後半は、映画とジャーナリズムの交錯した物語になる。国際ジャーナリストとして中東やアフリカで取材を重ねるなかで、私は2度ほど生命の危険を感じる羽目に陥った。 そんな母である私の不在を、娘のデルフィーヌはよく耐えてくれた。愚痴も言わず、芯の強い、奥床しい女性になってくれた。 離婚当時、私が父親でなく母親だったので、日本の法律は娘に日本の国籍をくれなかった!! かつて日本に滞在し、期限付きヴィザが2日過ぎてしまった時、出国審査で咎められ「刑務所行きだ」と言われた彼女は「こんなに愛しているのに、日本が私の国でないことは解った」と呟いた。私は胸が痛んだ。 この本の装幀や、挿画まで担当してくれた愛しい娘や、2人の孫に、私は3年近く会えていない。コロナの前には、「黄色いヴェスト運動」(2018年11月17日からフランスで断続的に続くマクロン政権への抗議活動)があって、私も彼等も旅行できないでいる。 忘れた頃、地球を襲うウイルスは、人間が新しいコミュニケーションや、他との交わり方を考える力をせせら笑いながら見守っているようだ。手強いコロナウイルス。世界中の人間が力試しをする時なのだろう。
岸惠子
https://news.yahoo.co.jp/articles/65f26d7cfa5ba0f6f7cd2ad02ec359086beef3d8?page=1