izumiwakuhito’s blog

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「退職金蒸発、借金700万」大企業定年後に認知症になった70代義父母に人生を狂わされた30代女性の半泣き

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

人もうらやむ有名大企業を定年退職した義父母は70代となった今、認知症になり、頑として病院へ行こうとしない。夫とともに子育てしながら義父母のケアをする30代女性はある日、通帳を見て愕然とする。退職金は消滅し、700万円もの借金があった――。
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。
明らかに様子のおかしい義父母に振り回される30代の嫁
中部地方在住の能登千秋さん(仮名・30代後半)は現在、介護認定調査員をしている。30代前半、介護福祉士として働いていた頃、6歳上の夫と結婚。2015年には双方の実家に遠くない場所に新居を建て、翌年12月に長男を出産。子育てと仕事に追われつつも、幸せに暮らしていた。
ところが2017年3月、突然、当時72歳の義母から電話がかかってきた。
「千秋さんのお姉さん、もうすぐ2人目が生まれるんでしょ? なのに、まだ上の子のお祝いをしてなかったわよね?」
能登さんの姉が上の子を出産したのは3年前。お祝いはとっくにもらっていることを伝えると、「そうだった? やだわ〜、最近忘れっぽくて」と笑ってごまかした。
半年後。姉が無事2人目を出産したことを義母に伝えると、その数日後、再び電話が。
「お父さんの運転で(能登さんの)お姉さんの産院へ行こうと思ったら迷子になっちゃって……」
後で姉から聞いた話によると、産院に着いた義母は、「“初めて”来る病院だから迷っちゃった」と言ったそうだが、そこは能登さんが長男を出産した場所。義両親は生まれた長男に会いに何度も来ていた。
明らかにおかしい。そう思って義父母に介護認定調査を受けさせようとしたところ、義母は激怒し断固拒否。義父は要介護1だった。
義父も義母も、いよいよ「これはヤバいな…」
その後、義母から「お姉さんの2人目はいつ生まれるの?」とメールが届く。能登さんはいよいよ、「これはヤバいな……」と思った。
その年の暮れには当時73歳の義父が車を自宅車庫にバックで駐車しようとして、アクセルとブレーキを踏み間違え、車庫に突っ込んでしまい、後方ガラスが大破。能登さんは夫とともに義父母を必死に説得し、免許を返納させ、車を処分した。
すると連日連夜、義父母から「車を返せ!」「車が盗まれた!」「車を貸してくれ!」などと、電話やメールの嵐。能登さん夫婦は、義父母ともに認知症の症状が悪化していると確信した。
それからというもの、「財布や貴金属類がなくなった、泥棒が入ったんだ」と警察を呼んだものの、後日、冷蔵庫や下駄箱の中から出てきたり、義父が歩いて数分のコンビニへ出かけたきり帰ってこないため警察に届けたところ、本人は片道5kmほど先の寿司屋でのんきに寿司を食べていたり。能登さん夫婦は仕事や幼い子どもを抱えつつも、2人に振り回され続けた。
認知症なのに、頑として病院へ行かない義父母
能登さん夫婦は、2人に適切な介護サービスを受けてもらいたいと考えているが、家を訪ねれば居留守。電話をかけてもメールをしても無視。対面しても無言を貫くため、お手上げ状態だった。
義母はまだ症状が軽かったが、義父の病院でさえ面倒になるのか、義母が勝手に受診をキャンセルしてしまうため、義父の薬が尽きてしまうこともしばしば。能登さんと同業の夫は、「俺、介護の仕事を続ける自信をなくすくらい、うちの母さんヤバイわ」とこぼした。
悩んだ夫は、母親の古くからの友人や受診予定の病院の相談員に、万が一、母親が勝手に受診日の変更や中止をしようとした場合は、自分に連絡をしてもらえるようお願いした。
そして受診日。実家へ迎えに行くと、2人はいない。能登さん夫婦は各方面に謝罪の電話をし、息子を遊ばせながら待つこと1時間。何食わぬ顔で2人が帰ってきた。
それを見た夫はキレて、こう詰め寄った。
「どこ行ってたんだよ! 母さんたちのことでどれだけみんなに迷惑をかけてるか分かってるのか?」
ところが、暖簾に腕押しで、義母は朗らかに笑いながら「ね〜、こんな認知症のお父さんと忘れっぽいお母さんじゃ、千秋さんは本当に大変よね〜?」とまるでひとごとだ。
夫は溜息をつくしかなかった。
「これ以上はもう、千秋に迷惑かけられないから、離婚して実家に帰ってもらうことにしたよ……」
それを聞いた義母の顔は真っ青。
「何言ってるの? 離婚なんてダメよ! ねえ千秋さん、離婚なんてしなくたって大丈夫でしょう?」
「夫の気持ちを尊重して、離婚しようと思います…」
夫から何も聞かされていなかった能登さんは内心慌てたが、「夫の気持ちを尊重して、離婚しようと思います……」とすぐに話を合わせる。
「俺ら夫婦が真剣にお願いしてるのに、病院だけは絶対に行ってくれないよね? 治す努力もせず逃げてばかりで、そのあげく俺たちを巻き込むんだから、それなりの覚悟があるんだろ? 良くわかったよ。離婚なんて本意じゃないけど、千秋にこんな親の面倒を見させるわけにいかない!」
夫は真剣だ。
すると、義母はおどおどした表情で「私が病院へ行ったら離婚しないの?」と聞いてきた。
「病院なんて行くのが当たり前! 俺が千秋や子どもたちに迷惑がかかると判断したら離婚だ。俺は苦労させるために千秋と結婚したんじゃないんだよ!」
ようやく義両親は病院を受診。義母はまだ軽度だが、2人はアルツハイマー認知症と診断された。
退職金は蒸発するばかりか、700万円もの借金が発覚
翌年(2018年)6月。能登さんは次男を出産。5月から産休・育休に入り、実家へ帰っている間も、義母から「車がないので買物に連れてって」などと電話やメールがあった。
その頃の義父母は、家の雨戸すべてを閉め、朝か夜か分からない生活をし、来客があっても無視。呼び鈴の電池を外して鳴らなくしてしまっていた。能登さん夫婦は、毎日生存確認を兼ねて食料を届けたり、能登さんが食事を作って食べさせたりしていたが、ある日玄関にチェーンをかけてしまう。仕方がないので夫はチェーンを切断。その後も能登さん夫婦は、忙しい仕事や子育ての合間に、毎日2人の様子を見に行っては、山になった食器を洗い、最低限の掃除や洗濯をし、たまったゴミを捨てた。
そんな義父母は2人とも、定年まで有名大企業に勤めていた。義母は度々「息子夫婦に迷惑をかけたくないから、いずれお父さんと施設に入るつもり」と言っていたため、2人の老後の備えに関しては心配していなかった。
同年10月。能登さん夫婦は、2人の認知症が進み、何もかもわからなくなってしまう前に、本人たちの意見を聞いておこうと思い立ち、話し合いの場を設けることに。
すると義母は、「そろそろお父さんと施設に入るわ」と言い出す。夫が場所や予算について訊ねると、「山のほうがいいわね」と義母。さらに夫が受給している年金額について訊ねると、「この家売りましょう、お父さん」と義母。
能登さん夫婦は、嫌な予感がして顔を見合わせる。そこで能登さんが、
「お義母さん。私たち夫婦は家を建てて、まだローンもたくさん残っていますし、これから子どもたちの教育費や、自分たちの老後の資金も貯めていかなければならず、余裕が全くありません。私たちは、施設に入る資金について気になっています。大丈夫か大丈夫じゃないかだけでも答えていただけませんか?」
義母は通帳を取り出して広げた。
おそるおそる覗き込むと、残高は10万円弱しかないうえに、700万円ほどの借金まで発覚。義父が60歳で退職したときに、かなりの額もらっていたはずの退職金は跡形もない。
ゴミ屋敷の家は明太子と化粧品の山
「家を売って施設に入るわ」と義母は簡単に言うが、家の中はゴミ屋敷状態。しかも借金を抱えている状態では、義母がイメージしているホテルのような施設になど到底入れるはずがない。
最近、紛失や再発行が続いていたため、これを機に能登さん夫婦は義父母の通帳とキャッシュカードを預かることにした。「お願いします」と言って通帳とカード一式を差し出したはずの義母は、その日のうちに「通帳返せ!」「カード返せ!」と言い出し、以降、毎日のように「お金がない!」「5万円おろして持ってきて!」などと連絡が来た。
夫が何を買っているのか訊ねると、義母は「何も買ってない」の一点張り。
しかし、毎日義実家へ通っている能登さんには大方見当がついていた。義母は通販にハマっていたのだ。某有名メーカーの明太子や北海道のお取り寄せグルメ。通販番組でよく見るオールインワンクリームなどの化粧品が何個もあった。おそらく、年金生活になっても現役時代の生活水準が下げられず、気付いたら借金が膨らんでいたのだろう。
これほど全然楽しくないしんどいクリスマスは人生初めて
身の丈に合わない贅沢ぶりにいら立った夫が、「早く家片付けて、売って借金返せよ!」と怒鳴ると、「そんなに大きな声出さないで! お隣さんに聞こえるでしょ!」と世間体を気にする義母。
夫は夜勤もあり、激務で疲れている。2歳の上の子にはまだまだ手がかかるし、下の子は生まれたばかり。だがそんなことも言っていられない。能登さん夫婦は話し合いを重ね、義父母を自宅に呼び寄せ、義実家を片付けて売却し、借金を返済する方針を決めた。
同居開始は12月25日。三十数年生きてきた能登さんは、人生で初めて、全く楽しみでないクリスマスを迎えたのだった
旦木 瑞穂ライター・グラフィックデザイナー