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「絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」秋篠宮紀子さまの父が語った“子育て”のモットー

下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です

ご成婚の当初、「東宮が男子に恵まれなかった場合をのぞけば、皇統には直接関係しない弟宮」と見られることも多かった秋篠宮家。しかし、悠仁さまのご誕生や、秋篠宮さまが皇嗣となられたことで、「皇統に関与する宮家」へと変貌を遂げられた。
 ここでは、ノンフィクション作家石井妙子氏の著書『日本の血脈』(文春文庫)を引用。運命に押しつぶされることなく、時代の変化の中で、自分の処し方を見つけていった紀子さまのルーツを紹介する。
(※年齢・肩書などは取材当時のまま)
◆◆◆
ふたりの紀子
 統計学に身を捧げ、最終的には奉職を投げ打ってしまった川嶋孝彦と結婚し、夫を支え続けたのが妻の紀子だった。紀子妃の名前の由来にもなった祖母である。川嶋家に近い人物はいう。
「紀子さんは、このお父さんの母、紀子さんに顔も性格もよく似ているそうです。持って生まれたものが近いのだと言う人もいます。穏やかだけれども芯が強い。とにかく頑張る、我慢強い。そういったところが大変似ているのだと聞きました」
紀子さまの育児日記』『悠仁さまへ』などの著書がある高清水有子もこう述べる。
「紀子さんは言葉遣いといい、雰囲気といい、本当に上品で素敵な方でした。見事な敬語で、しかもお優しい控え目なご性格だった。『ああ、このおばあ様あっての紀子さまなんだ』、そう感じました」
会津人の気概
 この祖母、紀子には会津士族の血が流れていた。そしてまた、自分に流れる会津の血を非常に強く意識し、「会津人の気概」を貫いた女性であったという。
 紀子の父、池上四郎は会津藩士の子として生まれ、親兄弟とともに戊辰戦争を11歳で経験している。鳥羽伏見の戦いでは兄・友次郎が戦死し、続く越後小千谷の戦いでは井深宅右衛門が率いる遊撃隊に加わった父が負傷した。なお、余談になるがソニー創業者の井深大はこの井深家の末裔と言われる。
 会津若松城の決戦では戦死した兄や負傷した父に代わって、兄の三郎とともに四郎が籠城して官軍を迎え撃った。
 この時、会津若松城に攻め込んだ官軍の中には佐賀藩士(多久領)であった美智子皇后の母方の曽祖父もいた。なお、雅子妃の先祖も佐賀藩士である。
 会津は戦いに敗れ、その後、藩領を没収されると、藩主であった松平容保の嫡男、松平容大以下、会津藩士たちは極寒の地、斗南(現・青森県むつ市)へ移住させられ、四郎もこの時、父母や兄とともに斗南へ移った。その地で味わったのは開拓農民としての壮絶な苦しみである。痩せた大地、凍りつく寒さ。開拓に励む中で旧会津藩士たちは飢えと寒さにより次々と亡くなっていった。そんなある日、父は、息子の三郎や四郎を前にして、こう説いたという。
身を削るような努力を重ねて道を切り開いていった兄弟
「日新館(筆者注・会津藩藩校)に学んだ道を基礎として、勉強するのだ。それが儂の願ひだ。新時代に沿つた立派な人になつて呉れ、それが武士道を生すことにもなるのだ。武士の道は刻苦、忍耐と魂の錬磨とにある。その道を他に代へて生すことが出来る」(『元大阪市長池上四郎君照影』)
 兄弟はこの父の言葉に従い、斗南から出ることを決意する。それは見方を変えれば、貧苦と困難の中で、力を合せて土地を開墾しようとする仲間たちを裏切り、見捨てることでもあった。だが、老いた父は、「それは裏切りではない。新しい世の中で、会津藩士として学び鍛え上げて来た自分の能力を発揮することこそが侍の道である」と説き、自分は極寒の地に残るから、お前たちはこの地を離れよと、その背中を押したのだった。老いた両親や、仲間のことを思えば後ろ髪を引かれたことであろうが、ふたりの兄弟は東京を目指すと、身を削るような努力を重ねて、それぞれに道を切り開いていった。
大大阪建設の父」
 兄の三郎は司法の道に進んだ。後には函館控訴院検事長となっている。弟の四郎は警察畑を歩んだ。警視庁に採用され20歳で巡査となり、その後、警部として石川や富山、東京、京都と目まぐるしく赴任し、大阪府警察部長となった。この時、警察行政の手腕が高く評価されて、大正2年大阪市長となる。
 その在任期間は3期10年と長く名声が高かった。財政改革や、都市計画に係わり、大都市大阪の基礎を築き「大大阪建設の父」と評されている。福祉という概念のまだなかった時代に、さまざまな福祉政策を打ち立てた。会津藩士として味わった貧苦の苦しみから、常に飢えの苦しみにある人々へと心を寄せたのだろう。
 末娘にあたる紀子は、父の思い出として、このようなエピソードを書き綴っている。
「父は平素御座敷にて一人で食事をなし、母や子供がお給仕をするのが常であつたが、日曜日に郊外の茨木の休み家へ参つた時だけは、私共も共に食事をしました。その折私が『田舎の子供が……』と話した時『土地の子供は田舎の子供と云はれては、いゝ気持がしないものだ』と話したので、父が此の村の子供の気持まで察して一言々々気をつけて話す人だといふ事を深く感じ、この一言は私の只今の生活の上にも大きい指針となつてゐる」(川島紀子「亡き父の思出」)
子どもたちにも細心の注意を払う“配慮の人”
 敵側についた裏切り者と四郎を見る人もあったかもしれない。だが、四郎は「新時代の中で力を尽くすことこそが会津藩士の道だ」という父の言葉を噛みしめて働いた。利権を求めず、休息することさえ惜しんで働き続けた。大阪市長を務めた後には、肝胆相照らす仲であった田中義一が総理大臣となったために、朝鮮総督府政務総監に任命されて日本を後にした。しかし、過労が祟ったのだろう。在任中の昭和4年、東京で倒れてその生涯を唐突に終えた。休むことなく走り続けた、71年の生涯であった。
 四郎が家族や部下を叱りつけたことは一度もなかった。娘の紀子が語るように村の子どもたちにも細心の注意を払う、配慮の人であった。それは逆臣と言われ、流浪を余儀なくされる辛苦の中で得た視点、つまりは敗者の視点であったろうか。
 この四郎を陰で支えたのが、妻の浜であった。実は四郎と浜は、ともに再婚同士であり、その間を取り持ったのは西郷隆盛の弟、従道であったと、今回の川嶋家をめぐる取材の中でわかった。
日本の近代史に名を残す人物が名を連ねる家系
 この浜の父、小菅智淵も日本の近代史に名を残す人物である。陸軍参謀本部の初代陸地測量部長を務め、また日本全国の測量を推進して5万分1地図を作製する基礎を築いたことで知られている。
 小菅は天保3年(1833)、江戸牛込に幕臣の子として生まれ昌平坂学問所で学んだ。後には幕府の海軍機関である軍艦操練所に出仕し、西洋の科学技術全般、中でも特に数学と工学に秀でた才を見せたという。やがて戊辰戦争が起こると、幕臣として小菅は最後まで官軍と戦った。一説には「会津若松城で戦い、土方歳三とともにそこから脱出すると仙台から榎本武揚の軍艦に乗り込み、箱館に渡って五稜郭で戦った」といわれている。それが事実とすれば会津若松城では、後に娘の夫となる池上四郎とともに籠城して官軍を迎え撃ったということになる。
 五稜郭の戦いで、小菅は榎本武揚新撰組土方歳三らとともに、最高責任者のひとりとして指揮を執った。その戦闘の中で土方は戦死した。力尽きて降伏した後、榎本武揚と小菅のふたりは、最高司令官としての罪を問われて処刑されそうになった。この時、「新政府にとっても有益な知識を持った人間は生かしておくべきた」と薩摩藩士の黒田清隆が助命を強く訴え出て、処刑が取りやめられたという。
会津藩士の血、幕臣の血
 小菅はその後、しばらく投獄されるが恩赦となり、明治政府に出仕を命じられて、かつての宿敵である山縣有朋の元で、参謀本部の陸地測量部長となった。
 幕臣でありながら新政府軍に命を助けられ、その新政府に仕える。小菅の心には、池上四郎と同じように深い葛藤があったことだろう。小菅は池上四郎がそうであったように仕事に没頭し職務に命を削った。日本全国を歩いて測量し、正確な地図を作りあげることに邁進する。明治21年、基線測量の旅に出た途上で、チフスにかかり死去した。享年56。池上も小菅も、仕事中に亡くなっている。逆賊から新政府に徴用され、その中で適応し、出世を果たしていった者の背負わされた苦悩を感じる。
 この小菅が紀子妃の祖母である紀子の母方の祖父である。つまり紀子には会津藩士であった父の血と、五稜郭で戦った幕臣の祖父の血と、その両方が注がれていたということになる。紀子は、それを強く意識して生きた。
 紀子の娘である佐藤豊子が手記でこう語っている。
大阪市長を10年つとめた祖父池上四郎と、近代的測量術によって、5万分の1の地図を作った曾祖父の小菅智淵については、折々聞かされたものです。
 祖父や曾祖父を見習って人のために骨惜しみせずに働くように、そして礼儀正しく真っすぐな道を歩むようにと、母は子どもたちに言い聞かせていました」(佐藤豊子「祖父母、父母、こどもたち」『婦人之友』)
 紀子妃もまた幾度となく、祖母・紀子の口からこの話を聞いたことであろう。
鉄砲を手にした叛乱兵にも動じず対峙
 こんな逸話も紀子には残されている。
 夫の孝彦が内閣書記官として昭和11年ロンドンに随行員として出張していた際のこと、二・二六事件が起こった。当時、川嶋家は首相官邸に隣接する官舎に住んでおり、鉄砲を手にした数人の叛乱兵たちが土足で踏み込んで来た。紀子は少しも動じず、静かに、こう述べたという。「ご覧の通りおんな子どもばかりでございます」。
紀子さまの父・辰彦氏の温厚な性格
 紀子は昭和15年、紀子妃の父となる辰彦を産んだ。辰彦は疳の虫の強い子どもだった。川嶋家を知る人が振り返って語る。
「辰彦さんは今からは想像もつきませんが、道端に転がって泣いては、手足をバタつかせて我を通そうとするような子どもだったそうです。そんな時でも、紀子さんは何もいわず、ただ黙って抱きしめた。決して、叩いたり怒ったりしない。子ども本人が自分で行いを改めるまで待ち続ける。そういう辛抱強い方だったそうです」
 紀子も孝彦もともに穏やかな性格で、決して子どもを叱ったり、手をあげたりすることはなかったという。
 辰彦の「疳の虫」は、紀子のお蔭であろう、成長するとまったく消えた。その後はうって変って、非常に温厚で人と争うことを好まない性格になったという。
 川嶋家を知る人が続ける。
敗者になることを勧める
「紀子さんはたびたび『負けることはいいことなのよ。負けることでわかることがあるのよ』と柔らかい口調で辰彦さんに諭したそうです。喧嘩でも何でも、決して『相手を負かしてきなさい』とは言わなかった」
 敗者になることを勧める母。そこには逆臣とされた会津藩士の父、幕臣であった祖父の影響もあるのだろうか。
 二・二六事件の叛乱兵を前にしても動じず、その一方で敗者の視点を持つことの大切さを説いた紀子は、辰彦の人格形成に大きな影響を与えた。辰彦は母の自分に対する教育に感謝し、自分の子育てにおいても、それを踏襲したいと考えたという。ある人は辰彦から、「僕も絶対に子どもを叱ったり怒鳴ったりはしない」と聞いたと語る。
 辰彦が17歳の時、父の孝彦が亡くなった。辰彦はその後、戸山高校から東京大学へ進学するが、父が法学部だったため、父と同じ学部は避けたいと思い、経済学を選んだという。だが、専門としたのは計量経済学で、気づかぬうちに父が愛した統計の要素を含む学問を選択していた。考えてみれば、父は統計学を専門とし、母・紀子の祖父である小菅智淵は測量の第一人者である。辰彦はその血を濃く受け継いだのかもしれない。
 辰彦はその後、大学時代に知り合った女性と大学院1年時に結婚する。女性の名は杉本和代、紀子妃の母である。