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元マラソン選手・原裕美子の告白「食べて吐くために万引きを…摂食障害と窃盗症に苦しみ抜いた15年

下記は婦人公論オンラインからの借用(コピー)です

万引きをやめたいのに、やめることができない。窃盗を繰り返す人の中には「窃盗症(クレプトマニア)」という病気に苦しむ人が一定数いることが、近年明らかになってきている。女子マラソン元日本代表選手の原裕美子さんが窃盗症に陥った背景には、マラソンのための過酷な減量が原因で始まった摂食障害があった(構成=古川美穂 撮影=藤澤靖子)
44キロまで落とすようにと言われ
「食べ吐き」を始めたきっかけは偶然です。私は走ることが大好きで、中学・高校の時は、朝でも夜でも暇さえあれば走っていました。小学校の時イジメに遭ってから対人関係が少し苦手だったので、速く走ることで周りの人が喜んだり、自分を受け入れてくれるのがとても嬉しかった。
ラソン選手は体重が軽いほうが有利です。高校時代は食べた分だけ走って体重を減らす指導を受けていました。当時のベストコンディションは44キロ(身長163センチ)。ところが2000年の京セラ入社時、49キロまで増えてしまって……。44キロまで落とすようにと言われ、思うように体重が減らないと厳しい食事制限を課されるようになりました。
体重測定は1日に4回から6回。社員食堂での昼食は、社員の方たちがパスタやデザートをおいしそうに食べているのを喉から手が出るような気持ちで眺めながら、用意されたたった半玉の蕎麦やうどんで我慢。お茶や水も、体重が増えるからとセーブしていました。
競技を続けるためにはとにかく体重を減らすしかない。ストレスのせいか、当時は毎晩のように金縛りにあっていて、気がつけば、あれだけ大好きだった走ることが嫌いになっていました。
ある日のこと。体重を落とすため、いつものように寮で夜中に隠れてエアロバイクを漕ぐ時、汗をかきやすいようにと先にお風呂で体を温めていました。すると湯船で急に気分が悪くなって、タイルの上に吐いてしまったんです。夕食後にほんのひと口のつもりで炭酸飲料を飲み、気がつくと1リットルも空けてしまったのが原因かもしれません。
お風呂を出てから体重を測ると、入浴前よりも減っていました。その時、頭に浮かんだのはたったひとつ。「やった! これで好きなだけ食べられる」ということ。
それをきっかけに食べ吐きを覚え、以来、毎日の生活がずっと楽になりました。食べたいものを存分に食べられ、全部吐いてしまえば自然に体重も落ち、指導者に怒られることもなくなった。いいことずくめだと思っていたんです。

何年にも及ぶ食べ吐きによって
ーー2005年名古屋国際女子マラソン優勝。同年、世界陸上ヘルシンキ大会6位。07年大阪国際女子マラソン優勝。積み重ねる華やかな戦績の裏では、摂食障害が確実に原さんの心身を蝕んでいった。
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選手として注目を浴び始めると、常に勝たなければいけないというプレッシャーが大きくなりました。周囲から「試合に出るからには優勝じゃないと意味がない」と言われ、自分自身も「絶対に結果を残さなければいけない」と。
毎日ものすごい量の練習やトレーニングをこなしながら、食べ吐きも続いていました。ある時チームのキャプテンに吐いているのを気づかれて、「そんなことを続けていると死んじゃうから、やめたほうがいい」と言われたことがあります。でもその時は競技で結果を出せていたから、そんなことあるわけがないと思っていた。
何年にも及ぶ食べ吐きによって、やがて体力が落ち、ケガも増え、そのケガが治りにくくなっているのに気づきました。私はケガをすると、人より気持ちの落ち込みが激しいタイプなんです。最初は減量が目的でしていた食べ吐きですが、そのうちケガで走れないストレスを解消するための手段としてするようになっていきました。
このままだとまずい。吐くのをやめなきゃ、と思ったことも何度かあります。でも体重が増えて走れなくなることや、怒られることが怖くて、結局やめられなかった。
悩みについてチームの誰かに相談したことはありません。マラソンは自分との闘いだから、自分に勝たなければ他人に勝てるわけがない。ここで他人に頼っていたら競技でも強くなれないと、ずっと思い込んでいた。すべて、マラソン競技と繋げて考えてたのです。

食べて吐くために万引きを…
初めて万引きをしたのは07年、京セラ陸上部が高地トレーニングのために行っている中国・昆明(クンミン)での3週間の合宿中でした。合宿では普段以上に厳しく生活が管理されます。買い物にも許可が必要で、過食して吐くためのお菓子やパンを簡単に手に入れることができませんでした。
食べてもどうせ吐くのだから、無駄なことをしているのはわかっています。でも食べたいものを満足いくまで食べて吐くことは、私にとってつらい毎日を乗り越える唯一のエネルギー源になっていたのです。
宿を抜け出して食べ物を買いに行くたびに怒られ、お財布も没収されました。自分のお財布からこっそり100元だけ抜きとったのですが、それもすぐ底をついて。ある日、残った2、3元を持ってお店に入ると「あれも食べたい」「これもおいしそう」という思いが湧き上がって抑えられなくなり、気がついたらポケット一杯に食べ物を詰め込んでいた。
捕まったらどうなるとか、会社をクビになってしまうんじゃないかとか、先のことは一切頭に浮かびませんでした。
結局、お店の人に見つかって大騒ぎに。外国人の女性ということでその場はなんとか許してもらいましたが、もう二度とこんなことはするまいと心に誓いました。
ところが帰国してしばらく経つと、またしても私は万引きに手を染めてしまうのです。当時は毎晩のように、スーパーでカゴに山盛りの食料を買っていたのですが、レジの人に「異常な量の食べ物を連日買いに来るヘンな客」と思われているんじゃないか、と不安で仕方なくて。だけど食べ物はどうしても欲しい。罪悪感はありましたが、だったらこっそり持ってきてしまえばいいという気持ちがまさっていました。
何度か万引きを繰り返しましたが、偶然、私のファンだという中学生にスーパーで声をかけられたことをきっかけに、「こんなことをしていてはいけない」と思い直し……。京セラを退社するまではしませんでした。

信頼していた相手に裏切られて
ーーその後、故・小出義雄監督が指導するユニバーサルエンターテインメント陸上部を経て、31歳の時、知り合いのAコーチが立ち上げた会社に入社。選手として活動しつつ市民ランナーの指導に従事する。だがAコーチが原さんを含めた周囲の人間から多額の金銭を騙し取っていたことが発覚した。
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Aコーチから、新しい会社をつくるので出資してくれと言われて出したお金、遠征費用の立て替えなど、合わせると1300万円ぐらいになります。相手を信頼していたからこそ、騙されていたと知った時のショックは大きかった。
一部はなんとか取り返したものの、京セラ時代の貯金の大半を失いました。そのつらさを、私はまた食べ吐きと万引きで埋めようとしてしまったんです。
アパートに一人閉じこもり、朝から晩まで食べては吐いてを繰り返しました。もう完全に自分で自分をコントロールできず、食べ吐きと万引きでなんとか精神を保とうとしている状態です。
最初は「万引きなんて絶対にやめよう」と思っていたのに、いつの間にか「あれだけの金額を騙し取られたんだから、この程度のものを取ってもいいじゃないか」「悪いのは全部、私を騙したAコーチだ」と考えている自分がいました。
今思えば、おかしな理屈です。でも当時は受けた心の痛みを理由に、自分の行為を正当化しようとしていた。外に出れば毎回のように万引きを繰り返し、この時期だけでも都内で2回逮捕されています。
すごくつらかったけれど、こんなことは家族にも言えません。一番の相談相手だった姉にさえ話せなかった。一人で泣いて、一人で吐いて、半年ぐらいはそんなふうに過ごしていました。もしもあの時、自分の苦しい思いに耳を傾けてくれる誰かが隣にいたら、どれだけ救われただろうと思います。
詐欺事件からしばらく後に、地元のフィットネスジムでできた友人を通じて一人の男性と出会いました。お付き合いするなかで、結婚の具体的な話もどんどん進んで。万引きも一時的に止まり、彼との新しい生活を心待ちにしていました。
でも、相手方の庭に運動場を作る話を私が断ったんです。私を利用できないとわかってから、どんどん男性は離れていきました。結婚式まで挙げたにもかかわらず、土壇場になって相手の家族も巻き込んだすれ違いがいろいろと重なり、歯車が狂い始めて……。
届けを出す前夜、彼から「入籍を考え直したい」と言われてしまって。極度のストレスからまた万引きが再開し、食べ吐きとともに急激に悪化していきました。

7回の逮捕で絶望して…
ーー原さんはこれまで万引きで7回逮捕されている。17年には初めて事件がマスコミに大きく取り上げられた。その後入院した千葉県の精神医療センターで告げられた病名は、「摂食障害および窃盗症」。治療を受け、一度は回復して退院したものの、翌18年に万引きの再犯で、執行猶予4年保護観察付有罪判決を受けた。
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18年に逮捕された時はもう絶望しかなかった。4畳半の留置場で体の水分が出きったかと思うほど泣いてから、「死んで家族に償わなければ」と考えました。
治療をしても治らない。これ以上生きていても家族をはじめ周りの人を傷つけるだけ。すでに一度執行猶予がついていたので、今回は確実に実刑になる。これまでさんざん親を泣かせて、このうえ刑務所に入ってもっとつらい思いをさせるぐらいなら、早く死んだほうがいいと思ったんです。
首を吊ろうとしたけれど、留置場に紐はありません。そこで両手を頸動脈に添えて力を加えたのですが、咳き込むだけで死ねない。舌を噛んでみたけれど、やはり死ぬことができません。
その後に弁護士さんと会った時、「自殺しようとしたけれど死ねなかった」と話したんです。そうしたら「死ななくてよかった。原さんが元気になって戻ってくることを待っているファンはたくさんいます。それに、原さんが克服することで、同じ病気を抱えている人たちに勇気を与えることもできます。一緒に頑張りましょう」と言ってくださって。その言葉に、涙が止まりませんでした。
「その才能を病気からの回復に向けてください」
公判の時はまず「懲役1年」という言葉が耳に入りました。「ああ実刑だ、刑務所に連れていかれる」。そう思ったら、もう後に何を言われているのか全然わからなくなり放心状態に。
ところが判決理由を読み上げる最後のほうで、裁判官の声が明るくなったように感じたんです。最終的な結論は、なんと執行猶予4年保護観察付というものでした。
裁判官は「自分も市民ランナーとしてマラソン大会に出ています」と言って、こう続けました。
「原さんは、世界で戦えるぐらいに努力する才能を持っている人です。その才能を今度は、病気からの回復に向けてください」
何年もひどいことをしてきた私に、こんな優しい言葉をかけてくださるんだと思ったら、すごく嬉しくて。何が何でも絶対に病気を治してやろうと決心しました。
それに、私のケースがこれからの量刑の相場に影響すると言われたことも、心に刺さりました。つまり自分がここから回復したら、この執行猶予は正しい判断だった。でも、また犯罪を重ねたら、再度の執行猶予は間違いだったということになる。私のこれからの行動がほかの窃盗症の人の人生まで左右してしまうのですから、もう自分だけの問題ではありません。
それ以来、万引きは止まっています。食べ吐きの衝動もだいぶ収まりました。自分自身のこともよくわかってきて、このままだと食べ吐きしそうだな、危ないな、と思ったら、音楽を聴いたり走ったり。信頼している友達に話を聞いてもらうという方法も覚えました。少しずつですが、人を頼れるようになってきたと思います。
走ることを心から楽しめる
ーー現在、原さんは千葉市内の物流会社に勤め、週5日フルタイムで勤務している。夜は居酒屋のバイトを入れ、コロナ禍以前は休日にマラソン大会の手伝いも。
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昼の仕事は倉庫内でパソコンを使いながらの事務作業なんですが、毎日段ボールを扱っていて、手がガサガサ。でも私のことをすべてわかったうえで採用してくれて、感謝しかありません。皆さんとても親切で優しくて、とっても良い職場なんです。
居酒屋のほうも大将と女将さんがとてもいい方で、お二人の笑顔を見ると癒やされます。また、常連さんも皆さん、私の過去を知っても変わらず、温かく接してくださって。むしろ過去を知ってからのほうが親しくなってるかも。
昼間の仕事でどんなに疲れていてもお店に入り大将、女将さん、常連さんの顔を見ると一瞬で疲れが消えちゃうほど、心の栄養補給になってます。私にとって、とても大切な居場所です。
不定期で手伝っているマラソン大会は、今はコロナの影響で中止や延期が多いのですが、走れる体をキープするぐらいには練習も続けています。体重へのこだわりはありません。
走るのは週に半分ぐらいで、やりたくなかったら無理はしない。昨日は天気のいいなかを走っていたら、最高に気持ちが良くて。やっと走ることを心から楽しめるようになりました。私はそんな今の自分が好きです。
「隠さずに生きる」ことが心地よく
3月には、自分の体験を『私が欲しかったもの』という本にまとめました。こうして自分の過去を話すことで、再び家族を傷つけてしまうかもしれない、という不安が頭をよぎることも一度や二度ではありません。
でも、この病の恐ろしさを多くの人に知ってもらい、病気に苦しんでいる人の手助けになりたい、できるだけ寄り添いたくて、恥ずかしいこともさらけ出しています。今はこの「隠さずに生きる」ことが心地よく感じるんです。隠して生きるより、ずっと楽!
もし心に苦しみを抱え、悩んでいる方がいたら、一人で悩まず誰か信頼できる人に思い切って打ち明けてみてください。たとえ直接の解決にはならなくても、心の中のつらいものを受け止めてもらえたというだけで気持ちはずっと楽になります。
話すこと、相談することで、自分は一人じゃないと思えるようになって、前向きになります。今まで一人で抱え、苦しみ耐えてきた人も、少しずつ人を頼れるようになると思います。
私は、五感を使って食事を味わい、楽しむこと、作り手に感謝することを教わりました。朝から晩まで食べ吐きをしていた時には考えられなかったことです。
今、毎回の食事が楽しいです。これって、特別なことではなく、ごく当たり前のことだと思います。でも、私たちにとってその当たり前のことを当たり前にすることがどれだけ難しいかを知っているからこそ、今のこの生活を送れることに、幸せを感じています。
私と同じ病で苦しんでいるひとりでも多くの方に、私の体験が届いてほしい。ほんの少しでも、勇気をもって前に進むきっかけになれば嬉しいです。
出典=『婦人公論』2021年6月22日号

宮内庁が恐れる小室圭さんの告発 米メディアが巨額オファーの可能性も

下記はNEWSポストセブンからの借用(コピー)です

 秋篠宮家長女の眞子さまの婚約内定者・小室圭さんが、5月23日に留学先の米フォーダム大学ロースクールを卒業した。7月に控えるニューヨーク州の司法試験までは勉学に勤しむ期間となりそうだが、「帰国の予定もなければ、記者会見を開く予定もない」(皇室記者)という。
 母・佳代さんの金銭トラブルがいまだ解決せず、秋篠宮さまが述べられている「国民の祝福を受けた上での結婚」には程遠い状況にある小室さん。現時点では卒業後の身の振り方を一切明らかにしていないが、眞子さまと結婚し、アメリカで暮らすのではないかとの指摘も多い。もしもそうなったならば、「米メディアが接触する可能性は充分にある」と、皇室ジャーナリストは言う。
アメリカで取材を受ければ、“結婚を反対されて日本から逃げてきたふたり”として取り上げられるのでしょう。“将来の天皇の義兄”がそんなセンセーショナルな取り上げ方をされれば、注目は必至。自ずとオファーも高額となるはずです」
 アメリカでは先日、英王室を離脱したヘンリー王子の告白が大きな反響を呼んだばかりだ。5月21日に配信が開始されたアメリカのネット番組でヘンリー王子が明かしたのは、妻・メーガンさんの苦悩だった。その中には、メーガンさんが自殺を考えたこともあったという内容も含まれていた。
 沈黙を貫く小室さんに対しても、宮内庁内には「告発の機会を虎視眈々と伺っているのでは」という声がある。物価の高いニューヨークで暮らすのであれば、仮に結婚一時金を受け取ったとしても生活費が早々に底をつく可能性はある。そんな小室さんにとって、巨額のオファーはまさに渡りに船だろう。もしそんなことが実現したら、小室さんの“暴露”はどんな内容になるのか。
 英王室に詳しいジャーナリストの多賀幹子さんはこう話す。
「ヘンリー夫妻はメーガンさんが自殺を考えても、“王室は何もしてくれなかった”と訴えたことでアメリカ国民の支持を得ました。ですから小室さんも、“国民からいわれなき批判を受けた”“どれだけ追い込まれても皇室は助けてくれなかった”という告発で、支持獲得を狙うのではないでしょうか」
さらに、秋篠宮ご夫妻には小室さんに突かれかねない「弱点」があるという。
「ご夫妻が、いわば『私』の感情である自由恋愛の末に結婚されたことです。いま、眞子さまと小室さんは皇族としてのあり方より『私』を優先されていることが批判の一因となっています。小室さんが“なぜ自分たちはご夫妻のような恋愛結婚が認められないのか”“これほど眞子さまを愛しているのに”と、眞子さまとの恋心を語れば同情を集められる可能性は高い。
 それどころか、“自分たちのしたことを、なぜ子供には認めないのか”と秋篠宮ご夫妻に批判が向きかねないのです」(皇室関係者)
 小室さんは静かに、チャンスをうかがっているようだ。

精神科医が「絶対にやるべきだ」と断言する朝のベスト習慣

下記の記事はダイアモンドオンラインからの借用(コピー)です

「朝の30分」で人生が変わる
いま、YouTubeなどで有名人によるモーニングルーティンが話題ですが、精神科医としておすすめの最高のモーニングルーティンがあります。
それが、「朝散歩」です。
方法は簡単です。朝起きてから1時間以内に15~30分の散歩をするだけです。それだけで、セロトニンが活性化し、体内時計がリセットされ、「副交感神経」から「交感神経」への切り替えがうまくいき、自律神経が整えられます。
ストレスフリーを目指すのに、こんなに効果的な健康習慣はありません。
朝散歩の科学的根拠とは
私は25年間以上、精神科医として、メンタル疾患が治りやすい人と治りにくい人の特徴を観察してきました。メンタル疾患が治りにくい人の特徴は、「昼まで寝ている」ことです。
実際に「昼まで寝ている」という患者さんが、「朝散歩」をはじめた途端に、症状が急激に改善する事例を多数観察し、現在では一般の人にも「朝散歩」をおすすめしています。何年も治らなかったうつ病パニック障害などのメンタル疾患が、朝散歩をするようになってから「ものすごくよくなった」という報告をたくさんいただいています。
メンタル疾患がない人でも「朝散歩」をすることで、午前中の仕事のパフォーマンスがアップし、睡眠も深くなる効果が得られます。
朝散歩は健康になるためのすべての要素を含んでいます。朝散歩は、メンタルにおける最強の健康法といっていいのです。
朝散歩が効果的である科学的な理由を3つ紹介しましょう。
(1)セロトニンの活性化
セロトニンは、「朝日を浴びる」「リズム運動」「咀嚼」によって活性化します。朝の散歩は、「朝日を浴びる」「リズム運動」(ウォーキングなどの規則的なリズムを刻む運動)の2つを兼ねているので、セロトニンを十分に活性化することができます。
セロトニンは、覚醒、気分、意欲と関連した脳内物質で、セロトニンが低下するとうつ的になります。セロトニンが活性化すると、清々しい気分となり、意欲がアップし、集中力の高い仕事ができます。
そして、セロトニンを材料に夕方から睡眠物質のメラトニンが作られます。セロトニンが十分に分泌されることで、結果、夜の睡眠が深まるのです。
普通の人でも、仕事が忙しくてストレスフルな生活をしていると、セロトニンを分泌するセロトニン神経が弱ってきます。朝散歩によって、毎日、セロトニン神経をしっかり活性化することで、ストレスを受け流し、脳の疲労を回復できます。
(2)体内時計のリセット
人間には体内時計があり、平均24時間10分前後といいます。体内時計をリセットしないと、毎日10分ずつ寝つきの時間が遅くなり、昼夜逆転生活となってしまうのです。
体内時計をもとに、睡眠、覚醒、体温、ホルモン、代謝、循環、細胞分裂などがコントロールされているので、体内時計がズレると、「指揮者のいないオーケストラ」のように体内がバラバラの状態になり、高血圧、糖尿病、がん、睡眠障害うつ病など、さまざまな病気の原因となります。
体内時計をリセットするには、太陽の光(2500ルクス以上)を5分浴びるのが効果的です。だからこそ、朝に外に出ることがいいのです。
(3)ビタミンD生成
ビタミンDは、カルシウムの吸収を助け、骨を丈夫にするホルモンです。ビタミンDは、非常に欠乏しやすい栄養素として知られ、日本人の8割がビタミンD不足ぎみで、4割で欠乏していると言われます。
ビタミンDが欠乏すると、骨粗鬆症になります。骨粗鬆症になると、ちょっとした転倒で簡単に骨折します。骨折するとしばらく安静が必要なため、一気に筋肉が衰えます。高齢者の場合は、それがきっかけで「要介護」「寝たきり」になる人も多いのです。
ビタミンDは食事から摂取もできますが、必要量の半分は自分で生成することができます。原料は「紫外線」です。皮膚に日光(紫外線)が当たると、ビタミンDが生成されます。
15~30分の朝散歩をすれば、1日に必要な量のビタミンDの生成が行われます。紫外線が気になる女性も多いでしょうが、だからこそ日差しの強い昼ではなく、日光が比較的弱い朝がベストなのです。
以上をまとめると、メンタル疾患のある人から、夜の寝つきが悪い人、仕事でパフォーマンスを上げたい人まで、すべての人に朝散歩がおすすめです。少しでも身体的・メンタル的に不調がある人は、必ず習慣として取り入れてください。
具体的な朝散歩の方法
基本的な方法は、「起床後1時間以内に、15~30分の散歩を行う」です。午前中(できれば10時まで)に行いましょう。雨の日でも効果があります。サングラスはかけず、紫外線を防御しすぎないのがポイントです。
健康な人であれば、15分ほどでセロトニンが活性化します。「メンタル疾患のある人」「メンタルが弱っている人」「睡眠に問題がある人」などであれば、セロトニン神経が弱っている可能性が高いので、30分を目安にしてください。
ただし、30分を超えるとセロトニン神経が疲れてしまい、逆効果になるので注意しましょう。
また、起きて3時間以上が経ってから朝散歩をすると、体内時計が後ろに3時間ズレてしまうので逆効果です。必ず、起きて1時間以内に行ってください。
健康な人の場合は、室内でも日光の入る明るい部屋にいれば、ある程度体内時計はリセットされます。しかし、体調の悪い人、メンタル不調の人は室内では不十分ですので、起床後、1時間以内に屋外に出るべきです。
朝散歩の後には朝食を食べましょう。朝食を食べることで、さらに「脳の体内時計」と「体の体内時計」のズレが補正されます。
また、よく噛んで朝ご飯を食べましょう。「咀嚼」もリズム運動なので、それだけでセロトニン神経を活性化します。
「リズム運動」であれば、セロトニンは活性化するので、悪天候で外に出られないときは、室内で「ラジオ体操」で代用してもいいでしょう。
さらに効果的な方法
朝散歩なので、ジョギングをする必要はありません。歩くときの「リズム」が重要なので、「ワン、ツー、ワン、ツー」と同じテンポでリズミカルに歩きましょう。体力に余裕のある人は、「早歩き」で軽快に歩くといいでしょう。
先ほど、午前中(できれば10時まで)にすべきだと書きましたが、それは午後に散歩しても、セロトニン活性効果が小さいからです。
体内時計がリセットされてから、15~16時間後にメラトニンが分泌されて「眠気」が出ます。逆算すると、午前7時に体内時計をリセットすると、22~23時に眠気が出るということです。午前8時に体内時計をリセットすると、23~24時に眠気が出ます。だから、午前11時に朝散歩をすると、体内時計のリセットが遅れてしまいます。
サングラスをかけるのがNGなのは、セロトニン神経が活性化するためには、ある程度の明るさの光が「網膜」から入らないといけないからです。
また、肌を覆う紫外線対策(UVクリームなども含む)をすると、ビタミンDは活性化しません。注意しましょう。
まずはハードルを下げて習慣化しよう
朝散歩をするといっても、「朝5時に起きなさい」ということはありません。「朝の調子が悪い人」「お疲れモードの人」「メンタル疾患の人」が、無理して早起きをすると、逆に調子を崩す可能性があります。最初は、自分に無理のない時間に起きて、その時間から朝散歩をすれば十分です。
毎日するのがベストですが、週1~2回でも、やっただけ効果があります。不定期でも、徐々に朝の目覚めがスッキリと改善していきます。
テンポよく「リズム」に集中するために、音楽を聴きながら歩くのもいいでしょう。好きな音楽であれば、寝起きの気分も上がるでしょう。
どうしても歩くのがしんどい場合、ベランダや庭に出て日向ぼっこをすることからはじめましょう。そこから、5分の散歩、10分の散歩、15分の散歩……と、少しずつハードルを上げていけばOKです。やればやっただけ効果が出ます。
「ストレスへの対処法」は不変のスキルだ!
私の臨床経験では、「几帳面でまじめな人ほどうつになりやすい」傾向を感じます。なぜなら、ストレスの原因を真正面から受け止め、不安になり、悩み続け、リセットできないからです。
悪いストレスをなくしていくことが、「ストレスフリーな人」になるためには重要です。
あなたの「考え方」「受け止め方」を少し変えるだけで、ストレスを受け流せるようになります。それだけで、「不安」や「悩み」の9割は消すことができます。
本書では、誰しもが悪いストレスを感じる「人間関係」「プライベート」「仕事」「メンタル」「健康」という5つのテーマに対し、「科学的なファクト」と「今すぐできるToDo」を示します。「いま何をすべきか」が明確になるでしょう。
樺沢紫苑(かばさわ・しおん)
精神科医、作家

「耄碌する義父母、のたうつ夫」4年で3人を天国に送った長男の嫁が見た"地獄の沙汰"

下記はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

関東生まれ関東育ちの既婚女性(当時50代)は、夫の定年後に、夫の実家がある東北の田舎へ義両親と同居するために引っ越した。認知症の始まった義父と、尿意を感じなくなった義母を世話して約3年後、夫が腰に激痛を訴え始め、歩くこともままならないほどに。自身も若い頃からメニエール病を患い、高齢の義父・義母に加え、夫の世話まで背負い込んだ女性を待ち受けていた地獄とは――。
関東の都市部に生まれ育った知多清美さん(仮名・60代・既婚)の夫は、東北出身。若い頃から言っていた「定年退職したら田舎に戻る」を有言実行し、夫婦で引っ越す。だが、認知症の義父は90歳近くでも車の運転をやめず、尿意を感じなくなった義母は尿を垂れ流す。女性は持病のメニエール病に悩まされながらも、義両親の世話に奮闘。そんな時、夫の腰痛が悪化し、歩くのもままならないほどに。さまざまな検査を受けると……。
夫の腰椎は砕けて空洞状態「多発性骨髄腫」という血液がんだった
2016年、認知症の始まった義父(93歳)は家の中で転倒し、右大腿骨頚部骨折をして以来、体調が悪化し、介護老人保健施設に入ることになった。翌年1月、施設内でインフルエンザが大流行。義父も感染し、その後、肺炎に。何日も熱が下がらず、一時は生死の境をさまよったが、2週間ほどで熱は下がる。しかし食べ物も飲み物も、口からは受け付けなくなっていた。
2月に入るとようやく義父は口からの食事を再開。1日3食食べられるまでに回復し、知多さんたちは義父の生命力に驚かされた。
一方、夫の腰は深刻だった。さまざまな検査の結果を踏まえ、整形外科の医師から、圧迫骨折、脊柱管狭窄症、骨粗鬆症と診断されるが、「悪い病気の可能性がある」ことから、さらに詳しく検査をしていくことに。
夫の腰椎の一部はバラバラに砕け、空洞状態になっていた。
「夫は学生時代からずっとスポーツをしていて、がっしり体型で体力だけには自信があった人。畑仕事をするようになってから徐々に体重が減ってきていましたが、そんな人の骨とはとても思えませんでした」
血液検査、大腸の内視鏡検査などを経て、夫は総合病院に転院。
主治医となった医師は、知多さん夫婦に「多発性骨髄腫」と告げた。「多発性骨髄腫」とは、病気が進行すると骨の破壊による痛みや骨折、腎障害、また造血が妨げられることによる貧血、感染症など、さまざまな症状や臓器障害が現れるようになる“血液のがん”だった。
ベッドでのたうつ夫「殺される」「夫は気が狂ってしまう?」
知多さんの夫は、毎年健康診断を受け、がん検診も受診していたという。
一般的な鎮痛薬は効かないため、医療用麻薬が処方された。
2017年2月。夫は病気の進行と腰の痛みを抑えるために入院。偶然にもこの日は夫の67歳の誕生日だった。
入院してからも夫は、激痛のために一日中ベッドの上でのたうちまわっていた。そんな夫の姿を前に、知多さんは背中をさすることしかできない。気がつくと面会時間をとうに過ぎていたが、それでもさすり続けた。
薬や点滴が効かず、夫は「このままだと殺される」「他の病院に変わろう」などと口にし、知多さんも、「痛みのせいで夫は気が狂ってしまうのではないか?」という不安に駆られた。
そして約半月後、背中に直接薬を注入する治療を開始。すると、30分もしないうちに、夫は苦痛に歪んだ表情から、痛みから解放された穏やかな表情に変わっていく。知多さんはほっと胸をなでおろした。
夫のがん闘病を支えつつ、90歳超の義父母の介護も……
義母は、義父と同じ老健ショートステイの利用を開始した。薬の関係で車の運転をとめられている夫に代わり、知多さんが夫の通院の送迎をするため、家に義母1人置いておけなくなったからだ。
「当時は夫に代わって私が畑仕事もしていました。その上、夫と義母2人のことを気にするのは、私にはとても無理でした」
義母は、「この歳で泊りになんか行きたかない!」「一人で家に居る!」などと言って拒否したが、知多さんは無視して、着替えなどをカバンに詰めた。
そして2017年3月。義父が死亡。94歳だった。
朝4時ごろに老健から電話があり、知多さんと義弟たちが駆けつけたが、すでに義父は息を引き取っていた。
しかし老健のスタッフが気を利かせ、義父の状態が悪くなったときに、すぐに同じ老健のショートを利用していた義母に声をかけてくれたため、義父の最期は義母が看取ることができた。
義父の葬儀は、入院中の知多さんの夫に代わり、義弟たちが進めてくれた。
「うちで引き取る気はないから、老健に入所させよう」
3月後半に入り、夫の退院が決定。
夫が退院して帰ってくるとなると、知多さんは夫にかかりきりになる。そこで義母のことを義弟たちに相談したところ、「うちで引き取る気はないから、老健に入所させよう」ということになった。
義母が老健に入所する日、上の義弟が車で送ってくれるというので、知多さんは任せることにした。
義母は、「いつまで老健にいる?」「迎えには誰が来てくれる?」などと何度も訊いてくる。知多さんは、「ずっと居るんですよ」と言いたいのをこらえ、代わりに「夫の具合がよくないので長くなると思いますよ。みんな『面会に行く』って言ってましたよ」とやさしく返事。
車が出発すると、知多さんは肩の荷が少し軽くなったように感じた。
その後、義母が借りていた介護用ベッドを返却し、代わりに退院して帰ってくる夫用の介護ベッドを搬入。退院の日は知多さんの娘がサポートしてくれた。
4月。夫の傷んだ腰椎を守るために、チタンを入れる手術をした。再び入院する際は、義妹の夫や下の義弟の妻が協力してくれた。
術後2日目。夫は薬の副作用で排尿障害があり、最初の入院から尿道カテーテルを入れて排尿をしていたが、それが外され、昨日は尿瓶を使っての排尿ができたとのこと。
術後3日目。夫は薬の副作用でひどい便秘になり、最初の入院からずっと下剤や浣腸を使ってオムツに排便していたが、車椅子を使って廊下を移動するリハビリを行い、ポータブルトイレに自力で移動・排便することができた。
この頃、夫の介護認定調査をすると、要介護4だった。日常生活のほとんどに介助を必要とする重度の介護を要する状態だ。ただ、調査を受けたときはほぼ寝たきりだったためにその結果になったが、幸い夫は徐々に回復した。
5月。夫の退院が決まる。前回の退院時はストレッチャーに乗ったまま、介護タクシーを使っての帰宅だったが、今回夫は知多さんの車から降りると、杖をついて自分で歩いて帰宅した。
妻の持病はメニエール、ある日入浴後に天井が回り始め……
退院後も、夫は週に1~2度は通院が必要だった。
6月。知多さんは耳鳴りが始まったので、薬をのみ、早めに就寝。翌朝はいつも通り起床できたが、夕方からまた不調に。夕食後あたりからめまいが始まり、様子を見ながら入浴したものの、入浴後に天井が回り始め、再び薬を飲みすぐに布団へ。
「私がメニエールのときの対処法は、夫は長い付き合いなのでよくわかっていて、不自由な身体で頑張って濡れタオルやティッシュペーパー、ペットボトルに水、嘔吐用に洗面器などを持ってきてくれました」
7月になると、夫は熱が上がったり下がったりを繰り返し、4日目に救急外来を受診。血液検査の結果、「CRP(炎症反応)」の値が高くなっていた。
「入院しますか?」と医師に聞かれ、「今日は帰ります」と夫。数日後に義父の初盆法要があるため、「お願いします」とは言えなかったのだ。
「腰が痛くてどうしようもない」「寒い」……夫が重篤な状態に
数日後、何とか無事に初盆法要を終え、7月末の深夜1時過ぎ。知多さんが眠っていると、夫が声をかけた。
「腰が痛くてどうしようもない」
とりあえず市販の鎮痛剤を服用させるが、「寒い」と言ってブルブル震え始める。通院中の病院に知多さんが電話すると、救急車を呼ぶよう指示される。
病院に到着後、尿検査や血液検査などを行った結果、痛みの原因は「石」だと言われ、夫はそのまま入院。翌朝、夫の入院準備をして知多さんが病院へ行くと、夫の熱は40度に上がっていた。
朝、出勤してきた専門医が詳しく診察したところ、夫は「腎盂腎炎」と診断される。
病の再発ではないと聞き、知多さんも夫も安堵したが、「腎盂腎炎」も侮れない。40度の熱が3日ほど続き、熱が下がっても夫は、しばらくベッドから起き上がれなかった。
主治医の話によると、もっとも状態の良くなかっときの夫は、腎盂腎炎から敗血症を発症し、大変重篤な状態だったようだ。
8月、夫は退院したが、その後も夫はたびたび尿路結石と腎盂腎炎による熱発を繰り返した。
ひとり娘が出産のために里帰り、またメニエールでダウン
2017年11月初旬、関東に住むひとり娘が出産のため里帰りした。
看護師だった娘は、数年前に流産を経験して以降、不妊治療に挑んでいたが、父親の多発性骨髄腫が発覚してからは、「早く孫の顔を見せてあげたい」と思い、不妊治療に専念するために退職。3月には妊娠していることがわかった。
11月半ばの妊婦検診では、「子宮口の開きは1センチ、分娩はまだ先でしょう」と言われたが、翌日の夜、娘が「胎動とは違う痛みがある」と言い、痛みの回数や時間をチェック。数時間チェックしていると、3~4分間隔で痛みが襲ってきているという。
22時ごろ、知多さんは娘の不安を解消するため、車で病院へ向かう。産科でいろいろと調べてもらったが、異常なしということで帰路につく。しかし0時半を過ぎた頃、娘は再び痛みに顔を歪め始める。
「その痛がりようは陣痛じゃない? 朝になったらもっと痛くなるよ。病院行く?」
と知多さんが言うと、「お母さんの車だと不安」と答え、娘は夫に連絡する。そうしているうちに娘は破水。悩んだ末に知多さんが119番をすると、駆け付けた救急隊員は、「破水したときは迷わず呼んでください。救急車の中で出産された方もいらっしゃいます」と言ってくれた。
病院到着から3時間半後、娘は無事男の子を出産。明け方には娘の夫が合流した。娘が退院する日、知多さんはまたメニエールでダウン。慌ただしい日々で体が悲鳴を上げたため、じっくり静養することにした。
夫は初孫にメロメロ。四六時中抱っこを続け、12月末に娘たちが関東へ帰ってしまうと、とても寂しそうだった。
心室細動で電気ショック20回、主治医「覚悟しておいてください」
2018年3月初旬。夫は多発性骨髄腫治療の新薬を使った治療のために入院。もう何度目の入院か知多さんさえわからなくなっていた。
入院3日目の夕方に知多さんが面会に来ると、夫は突然目をむいてベッドに倒れこんだ。慌てて知多さんがナースコールをすると、看護師が数人駆けつける。
看護師からは、「大丈夫ですか?」「どなたか連絡する方がいらっしゃったら今のうちに……」などと言われ、知多さんは病室の外へ。中からは、「このままだと呼吸がとまっちゃうよ!」という叫び声が聞こえてくる。
夫はICUに移されたが、その後も不整脈心室細動)を繰り返し、電気ショックを20回以上受け、主治医からは「覚悟しておいてください」と話があった。
夫は6日眠り続け、目覚めた。知多さんから連絡を受けた娘や義弟たちは、ほっと胸をなでおろす。
ICUに入って17日目、夫は一般病棟へ。
「もしかしたら、この世から消えていた可能性もあった命。神様が与えてくれたこれからの日々、大切に過ごさないとね」。
知多さん夫婦はこんなことを話し合った。
2018年4月、夫は無事退院。
「俺ももう、永くないかもしれないなぁ」
5月に知多さん夫婦は結婚40年を迎えた。6月には、夫のがん治療の合間を縫って、夫の友人夫妻たちと1泊2日の小旅行へ出かけた。
12月末、何クール目かの抗がん剤治療が始まり、夫は入院。知多さんが面会に行くと、夫はやはりしんどそうにしている。
食欲は落ち、血圧も低い。そのせいか夫は、「俺ももう、永くないかもしれないなぁ」とぽつり。発病以来、何度も入退院を繰り返してきたが、いつも「大丈夫だよ」と言って笑っていた夫。こんな気弱な言葉は一度も発したことがなかった。
「何言ってるの? 今身体がだるいのは薬の副作用。あと1日2日はしんどいと思うけど、きっと大丈夫!」
知多さんは笑いとばした。
2019年1月、夫は歩くリハビリを開始。そして中旬には無事退院が決まった。
夫と2人で老健施設にいる義母に久しぶりに会いに行くと、「畑仕事はもうできないよ」とずいぶん前から言っているのに、「今は何を作ってる?」「家で食べる分くらい作らんとね」などと言う。
そして「そろそろ家に帰ろうかやぁ」と言う義母に、「俺がこんな調子だからなぁ……」と夫は言葉を濁す。
「家に帰っても手はかからんよ。自分のことは自分でするし、どっこも悪いところはない」
と義母は言った。
2020年11月義母(94)、2021年3月夫(71)が亡くなった
2020年11月。義母は何度目かの尻もちをつき、その後、発熱。12月には血圧が低下し、翌年1月に永眠。94歳だった。
義母の通夜・葬儀は、腰の痛みで動けない夫の代わりに、義弟2人が手配してくれた。
2月になると、知多さんは義母関連の諸手続きや四十九日法要の準備に追われていた。
その頃、夫は通院が難しくなり、訪問診療に切り替える。心配した娘家族が来ても、夫は医療用麻薬で眠っていることが増えた。
義母の四十九日法要はコロナ禍ということもあり、近しい人たちだけで行われた。知多さんの夫は参列するのが難しく、納骨時だけ車椅子で参加。
3月に入ると、夫の容態は大きく変化した。
トイレまで行くことが難しくなり、ベッド横に置いたポータブルトイレで用を足すように。しかも、ポータブルトイレに移動するにも介助が必要になっていた。
知多さんは、自分が寝ている間に夫が自分でトイレに移動しようとして転倒されては困るので、センサーマットをレンタル。おかげで知多さんは、深夜や明け方でも、夫のトイレの介助に気が付きやすくなった。そして3月25日夜、夫は亡くなった。71歳だった。
血痕を拭き取りながら、涙が止まらなくなった
3月に入ってからというもの、知多さんは何度も総合病院や訪問診療の主治医から、「入院しますか?」と聞かれた。しかしその都度「自宅でみます」と返事をしてきた。
「今振り返って思うのは、壮絶な最期だったけれど、夫を入院させなくて良かった。自宅で看取れて良かった。そう心の底から思います。大変でしたが、その時々で、できることは精いっぱいしてきたつもりなので悔いはありません。もちろん、もっと生きててほしかったですが……」
しばらく滞在してくれていた娘一家が3月いっぱいで関東に戻り、その夜から知多さんは一人きりになった。
夫のためにレンタルしていたベッドや酸素吸入器などの介護用品を返却し終えると、部屋は空っぽになった。知多さんは掃除機をかけ、床を拭いていると、血痕を見つけた。おそらく夫のものだ。夫は最期の夜、大量に吐血して亡くなった。
知多さんは血痕を拭き取りながら、長く壮絶だった最期の時間を思い出し、涙が止まらなくなった。
夫の配慮があったからこそ義父母の介護もできた
知多さんは今も東北の地で、夫と建てた家にたった一人で暮らしている。
「義両親との同居が始まった2012年末からは、朝昼晩と4人分の食事の支度と片付けに追われる毎日でした。そのうえ田舎の本家ということもあり、親戚関係、義両親の友人知人、夫の友だちも遊びに来るので、ほぼ毎日のように10時や3時のお茶の用意も必要。その合い間に買い物に行こうとしていると、また突然の来客……。今振り返ると、この頃の私のストレスは最高潮でした。われながらよくやってたと思います」
義両親がデイサービスに通い始めると、週に2日は昼食の心配がなくなり、ずいぶん楽になった。
「食事のとき、義父はいつも『おいしい!』と褒めてくれました。やはり褒められるとうれしいものです。義母は汚れたリハパンを家でも老健でもあちこちに仕舞いこんで、それでも『自分のことは自分でできる!』と言い張るので困りました。つらいときは、誰かに聞いてもらうと少しラクになります。義両親の介護のことは夫に相談していましたが、愚痴をこぼす相手はもっぱら娘でした」
義弟や義妹たちは、義父母の介護そのものはノータッチだったが、夫が病気になってからは、送迎や農作業は快く手伝ってくれた。
知多さんと夫は、お互いにほどよい距離感を保ちつつ、信頼し合っていた様子がうかががえる。義母との関係も、順風満帆とは言えなかったかもしれないが、憎しみ合うほどでもなかったのは、知多さん自身の努力はもちろんだが、夫の配慮があってこそだと感じる。
夫の遺言「好きにしてくれ」、長男の嫁が思ったこと
2021年5月、娘に、夫が楽しみにしていた第2子が誕生。今回はコロナ禍ということもあり里帰りはしなかったが、知多さんのもとに「第1子にそっくりな男の子」の写真がLINEで届いた。
今、知多さんは介護をしているすべての人にこう伝えたいという。
「現在介護をしている方は、なるべく家に閉じこもってしまわずに、1日1回でもいいので、被介護者から離れて気分転換をする時間を作ってほしいです。近くを散歩するだけでもいいし、ウインドーショッピングでもいい。ご近所さんや友人とおしゃべりするだけでもいいと思います。私の場合、娘にはずいぶん助けられました。義両親と同居を始めてからというもの、大好きな趣味の時間が持てなかったので、落ち着いたらまずは、ステンドグラス制作やスポーツクラブ通いを再開したいと思います」
多さんから清々しさを感じるのは、「その時々で、できることは精一杯してきた」ということが伝わってくるからだろう。
夫の遺言には、「清美と娘に任せる。好きにしてくれ」と書いてあった。だが知多さんには、長男の嫁として、お墓のことや田畑のことなど、解決すべき課題が山積みだ。しかししばらくは、最愛の夫を失った悲しみを癒やす時間になることだろう。
旦木 瑞穂ライター・グラフィックデザイナー

「私たちは産む機械ではない!」中国の生育政策に翻弄された女性の悲痛

下記はダイアモンドオンラインからの借用(コピー)です

少子化が加速する中国は、1組の夫婦に子どもを3人まで認める方針を発表した。しかし、国民からは批判的な声も多く上がっている。中国はかつて、厳しい「一人っ子政策」を徹底して実施してきた。これにより強制的な中絶、避妊など苦しい経験をしてきた女性たちは、再三の方針転換にやり場のない怒りを募らせている。(日中福祉プランニング代表 王 青)
中国が「三人っ子政策」導入へ
SNSでは批判コメント続出
 中国は、5月31日の中央政治局会議で、1組の夫婦が子どもを3人まで持つことを認める方針を発表した。国営新華社通信がこのニュースを伝えた瞬間、各メディアやネットサイトが一斉に報じ始め、中国国内で激しい議論を巻き起こしている。SNSではおびただしい量の書き込みがあふれかえった。この件についてのニュース記事は、アクセス数が数十億に達したという。ある時事評論家は、「反響がこんなに大きいニュースは珍しい。予想外だ」と、驚きのコメントをブログにつづっている。
 どのサイトにも批判的なコメントや皮肉な書き込みが目立った。その中には、国の生育政策が幾度も転換した時代を生きてきた女性たちの苦痛の叫びも含まれていた。
 建国期の「産めよ増やせよ」の政策から、史上最も厳しかった「一人っ子政策」が実施された。その後2016年に一人っ子政策が撤廃され、「二人っ子政策」に移行した。そして、ついに「三人っ子政策」に至った。
 中国の生育政策の歩みを少したどってみる。
産めよ増やせよ」から一転
厳しい人口抑制政策へ
 中国は1949年に共産党政権が確立されてから現在まで、約70年間で約5回にわたり生育政策を転換させた。まるで手のひらを返すような方針転換の連続だった。
 まずは、1949~1953年の間、国は国民にたくさんの子どもを産むことを奨励した。1949年の中国の人口は5.4億人。新しい国家の建設と経済発展をさせるため、毛沢東国家主席が「人多力量大」(人口が多ければ力も大きくなる)というスローガンを掲げ、避妊や中絶を禁止する政策を打ち出した。避妊具や避妊薬の輸入も差し止められた。
 また、「たくさん産めば産むほど名誉なことだ」と呼びかけ、10人以上の子どもを産んだら、「光栄ママ」とたたえられた。1953年に行われた中国の第1回の国勢調査では、人口が大幅に増え、6億人に達した。
 その後、1954~1977年には、「(子どもは)1人は絶対いる、3人は多い、2人はちょうどいい」と、これまでの政策にややブレーキを踏むように、生育を抑制する方向に転じた。
 そして、1979~2015年、史上最も厳しいと言われた「一人っ子政策」が実施された。この36年間で苦しめられた女性や家庭はとても多い。
「産めば職場から追い出される」
女性たちの壮絶な苦悩
 都会ではほとんどの夫婦が共働きのため、第2子の妊娠に対しては職場が「監視の目」の役割を果たした。また、職場だけでなく、行政の末端組織である居民委員会も住民を厳しく監視し取り締まった。
 いったん妊娠が判明したら、逃げ場がない。職場からも居民委員会からも中絶するように責められる。逆らえば、勤め先から解雇される上、莫大な罰金を科される羽目になる。共産党員なら間違いなく除籍だ。一瞬にして人生が変わってしまう。
 筆者の上海にいる友人は、一人っ子政策が実施されていた頃、ある大学の付属病院で外科医として働いていた。当時20代後半だった彼女は、実力もあり、将来を有望視されていた。そんな彼女には当時3歳の娘がいたが、第2子を身ごもった。
「産めば、職場から追い出される。再就職もできず、将来は真っ暗だ……」
 産むべきか、産まざるべきか。ずいぶん悩んだ。結局、彼女は出産を諦めた。
「本当に厳しかった。どうしようもなかった。あのときのことは思い出したくない。私のような女性がどれだけいたのか……。これは運命というのか」
 もうすぐ50代になる彼女は、このように振り返る。
 当時は「小さな手術で、すぐ終わる」と、人工中絶の手術を勧められたという。上海市内はどこの病院も、朝は手術を待つ女性で産婦人科の廊下が混み合っていた。手術室といっても、医療機関は今ほどきちんと整備されていなかったので、仕切りのカーテンなど一切ない大部屋で行われることも多かった。そして、手術は麻酔なしで行われた。術後、婦人病を患ったり、何らかの不調が続いたりする女性も少なくなかったようだ。
 年に2回、産婦人科による超音波検査の結果の提出を義務付ける地域もあった。
至るところに過激なスローガン
一律に人工中絶を行った地域も
 都会と比べて、農村の状況はもっと過酷だった。男の子が労働力となり、家を継ぐという伝統的な習慣があるため、農村の女性は男の子を産まなければ、家族からも村の人々からも白い目で見られる。そのため、国は農村部に関しては、1人目が女の子であった場合は、2人目の出産を認める方針を打ち出した。
 ところが、女の子も「1人分」に数えられるため、生まれてきた女の子の赤ちゃんを遺棄したり、死なせたりすることが多かった。ある女性は、自分が産んだ女の子の赤ちゃんを、夫の家族に無理やり奪われて遠くの地に連れていかれてしまった。その後、子どもの行方は分からず、一生会うことはなかったという。また、取り締まりから逃れるため、妊婦を山に隠したり、遠く離れた親戚の家に身を隠したりすることも度々あった。
 当時は、農村を中心に、「一人っ子政策」を宣伝するスローガンが、横断幕や塀など至るところに書かれていた。これらのスローガンは、非常に過激なものばかりだった。
 例えば、
「寧可血流成河、不准超生一个」(たとえ血が川のように流れても、1人たりとも多く産んではいけない)
「一人超生、全村結扎」(1人でも超過して産んだら、村ごと結紮【けっさつ】※するぞ)
 編集部注※ここでは避妊手術のこと
「该流不流、〓房牽牛(〓の文字は手へんに八)」(中絶を拒否したら、家を壊す、牛を没収する)
 などなど。
 こうした文言からは、当時の殺伐とした社会の空気がうかがえる。
 人口抑制の機運が高まる中、1991年、山東省冠県など複数の地域ではある運動が起こった。
 それは、「百日無孩(百日ゼロ出産)」というもの。1991年の5月1日~8月10日の100日間で、子どもを1人も産ませない、という目標を掲げて行われた運動だ。この期間、妊婦であれば初産も第2子も関係なく、一律に人工中絶が行われた。出産間近だった女性も免れることができなかったという。
 最近、中国のSNSでは当時、冠県の党の書記を務め、この運動を起こして多くの女性を被害に遭わせた元幹部の責任を問うべきという声が多く上がっている。
手術で体内に避妊具を埋め込み…
子宮に傷がついた人も
 また、一人っ子政策が行われていた当時は、多くの女性が一人目の子どもを出産した後、これ以上の妊娠を防ぐためにIUD(子宮内避妊用具)を体内に入れる手術が頻繁に行われていた。数十年前にこの手術を受けて、リング(IUDのこと)が今も体に残ったままの女性は、2600万人にも上るといわれている。この事実が徐々に明らかになってきたのは、メディアやSNSなどで報じられるようになってきた近年の話である。
 2014年、中国の若手女性芸術家の周〓静さん(〓の文字は雨に文)は、母親が子宮がんと診断されたときにはじめてIUDの存在を知った。二十数年間も体の中にあったリングを取り出す際、激痛に耐える母親の顔と大量の出血を目にして、周さんは多大なショックを受けたという。以来、彼女はIUDに注目し、300種類以上のIUDを集めて展覧会を開いた。「この2600万人の母親たちのことを忘れてはいけない、IUDは彼女たちの健康を脅かしているのだ」と、社会に訴える活動をしている。
 当時IUDを体内に入れられた女性が、年を取ってから子宮穿孔や子宮摘出などに至るケースが後を絶たない。「まるで時限爆弾を抱えているようだ」――、現在このような女性たちの健康状態は社会問題になっている。
「中国統計年鑑2010」によると、1980〜2009年の30年間で、中国全土で行われた中絶の数が2.75億回。避妊手術は6.61億回で、そのうちの2.86億回はIUD手術だった。
「私たちを放っといて」
三人っ子政策へのやり場のない怒り
 時がたち、中国は経済が著しく発展し、社会環境や生活水準が良くなって、人々の意識も大きく変わった。加えて今、出産適齢の女性たちは、祖母や母が政策によって苦しい経験をしてきたことを知っている。そんな彼女たちの、今回の「三人っ子政策」に対する反応は、冷ややかというよりも怒りに近い。
「私たちは、子どもを産む機械ではない。国の都合で子どもの人数にまで首を突っ込まれるのはもうたくさんだ!」
「私たちを放っといてください。一人でも三人でも、実質的に『計画生育』であることは変わりがない」
 6月2日配信の記事『中国で少子化が止まらない!“三人っ子政策”導入も立ちはだかる「3つの壁」の深刻』でも述べたように、今回の政府の方針転換についての反発には、現在の中国で子どもを育てていくことにいろいろな壁があることも大いに関係している。ただ、その深層には、これまで国の生育政策に翻弄されてきた女性たちの心からの叫びがある。
 当時を生きてきた女性たちは、できればひっそりと「あのつらい過去」を心にしまって余生を過ごそうとしていた。しかし、今回の政策変更はその過去を現在によみがえらせてしまったのだ。体の傷は医療で治せるかもしれないが、最愛の子どもを失った心の傷は、長い時間をかけても癒えることはない。それが母親であるからだ。

小室圭さんが「愛子天皇」の障壁に? 女性宮家議論が結婚問題で停滞

下記はNEWSポストセブンからの借用(コピー)です

女性天皇に『賛成』」は85%。昨今の世論調査からは、「愛子天皇」誕生への期待感の大きさがうかがえる。そうした大きな改革には、国民的な議論が必要だ。しかし、秋篠宮家長女・眞子さまの婚約内定者の小室圭さんの存在が、議論の停滞を招いているという──。
 加藤勝信官房長官が、皇位継承を定めた憲法2条の「世襲」について「男系、女系(天皇)の両方が憲法において含まれる」と述べたのは6月2日。「慎重かつ丁寧に検討を行う必要がある」とは続けたが、遅々として進まなかった皇位継承の議論を進める意図だったのは間違いない。
菅義偉総理率いる官邸は、東京五輪後に国民の関心が高い『女性宮家の創設』を政治のメインテーマにしようと目論んでいます。加藤長官の発言は、“女性宮家創設の先に、女性・女系天皇の実現を視野に入れている”という宣言なのです」(官邸関係者)
 詳しくは後述するように、女性天皇の実現はこの秋に一気に加速する気配を見せているのだが、ここに「波乱」が待ち構えていた。将来の女性宮家の当主となりえる、秋篠宮家長女の眞子さまが抱えるご結婚問題だ。
 婚約内定者である小室圭さんは4月、母・佳代さんと元婚約者の間の金銭トラブルについて説明する文書を公開。4日後には、元婚約者に「解決金」を渡す姿勢を示した。
「文書で“説明責任”を果たすことで、国民の理解を得られるという期待は当然あったでしょう。28枚の文書はそれだけの“力作”でしたが、予想に反して国民の反応は冷たいものでした。
 焦ったのか、一転して解決金の支払いを提案するも、かえってその朝令暮改ぶりに不信感を持たれる結果になった。おまけに小室家の金銭トラブル対応の“陣頭指揮”は眞子さまが執っていたことまで明らかになり、“内親王が一般国民の紛争に介入するのか”と疑問の声はさらに高まった」(宮内庁関係者)
 眞子さまは「30才になられる10月までのご結婚を強く意識されていた」(皇室記者)といい、実際、宮内庁幹部らもそのスケジュールを念頭にサポートに動いていた。しかし、文書発表からの一連のドタバタで、「手詰まりになった。10月までの結婚スケジュールは事実上、白紙になった」(前出・官邸関係者)という状況だ。
 一方で、当の小室さんは動きを見せない。
「5月に留学先の米フォーダム大学ロースクールを卒業した小室さんですが、しばらくは帰国しないでしょう。受験予定とみられるニューヨーク州の司法試験は7月末。もし合格しても、弁護士登録ができるのは早くて来年です。帰国はその後になってもおかしくありません」(皇室ジャーナリスト)
 本来ならば問題解決に向け、会見を開くなど、何らかの行動を起こすべきところだが、なぜ小室さんは動かないのか。
「小室さんにとっては、“現状維持”が最良なのでしょう。問題を解決せず入籍もせず、『眞子さまの婚約内定者』であり続ければ、結婚して一般家庭に降嫁しない“将来の天皇の姉”である眞子さまのサポートを受け続けることができる。経済面でも、仕事の面でも、あらゆる面で皇室の力は特別ですから。そんな“事実婚”状態こそが、小室さんの期待する未来に思えてなりません」(前出・皇室ジャーナリスト)
 そうした状態は、この先何年続くかもわからない。そこで気を揉むのが、女性宮家創設を国民的な議論にしようとする菅官邸なのだ。
小室さんが“圭殿下”となる
 前出の官邸関係者が語る。
「コロナ対応で後手に回り、支持率低迷にある菅政権ですから、国民の関心の高い『女性宮家の創設』に着手し評価されることで、支持率低迷の打開策にする狙いがあります。天皇の『男系維持』にこだわっていた安倍前総理の流れを汲む菅総理は、表立って女性・女系天皇に関する意見は言いづらく、発言は控えています。ですが、菅総理は実際のところ、女性政策にはとても積極的ですし、男女平等の信念を持っています。女性宮家の創設、ひいては女性天皇の実現にも肯定的なんです。
 ちょうど東京五輪が終わって、新型コロナのワクチン接種もひと段落するであろう9月以降は、ほかに重要な政治的なテーマもない。そのときまで菅政権が続いていれば、女性宮家の議論を一気に進めようとするのは間違いありません」
 現行の制度では、女性皇族は結婚に伴い皇族の身分を離れる。しかし、女性宮家が創設されれば、女性皇族も結婚後には宮家(皇族の一家)の当主となり、皇室に残ることができるようになる。女性宮家が国民に受け入れられれば、「天皇家の当主」である天皇の位に女性が就くことも違和感なく受け入れられるはずだ。
 そもそも、この4月の世論調査共同通信)では女性天皇の実現に「賛成」する人は85%にのぼっている。
「『女性天皇』について、天皇陛下のご長女である愛子さまをイメージする国民は多いでしょう。愛子さまは12月に20才の誕生日を迎えられ成人されます。そういった意味でも、今年は女性宮家、女性・女系天皇の議論をするにはこの上ないタイミングなのです」(前出・官邸関係者)
 しかし、官邸の思惑は大いに狂いはじめている。4月に行われた皇位継承策についての政府の有識者会議では、母方にのみ天皇の血筋を引く「女系天皇」の容認についての質疑応答があった。そこで、麗澤大学教授の八木秀次氏は小室さんを念頭に「眞子さまのお相手との間に生まれたお子さんが天皇になる」と説明したという。しかし、その部分は後に議事録から削除された。
「ご結婚前に女性宮家が創設されれば、眞子さまは新しい宮家の当主となられる可能性があります。その後、小室さんと結婚された場合、小室さんが皇室に入り、“圭殿下”となる可能性もあります。そんな中で、果たして議論は進められるでしょうか。眞子さまのご結婚問題に終止符が打たれない限り、議論は本格的に進められないのではないでしょうか」(前出・皇室ジャーナリスト)
 事態を重く見た官邸は、宮内庁ヒアリングを重ねているという。
「9月に女性宮家創設の議論を本格化させるには、それまでに眞子さまのご結婚問題にめどが付いていることが必須。官邸は、眞子さまに“早く結婚のスケジュールを固めてほしい”という思いだといいます」(前出・官邸関係者)
 ヒアリングの結果、明らかになったのは、眞子さまのご結婚に対する強いご意思だったという。
眞子さまは、ご結婚によって皇室とのかかわりが一切なくなろうと、約1億4000万円とされる結婚一時金が受け取れなかろうと、とにかく“どうしても小室さんと結婚したい”とお考えだそうです。
 しかし、いくら眞子さまが“一時金は不要”とおっしゃっても、元皇族が一般人の中で生活するには、セキュリティーの面などを考えると経済基盤は不可欠。就職先も明かしていない小室さんと結婚されるのであれば、なおさら“経済的支援は必須”というのが、政府の見方のようです」(前出・皇室ジャーナリスト)
 ヒアリングでは、眞子さまのご結婚問題に対する秋篠宮ご夫妻のご意向も見えてきた。
「ご夫妻はいま、眞子さまのご結婚に向けて積極的に動かれることはないようです。秋篠宮さまは、結婚の条件として『国民からの祝福』を一貫して求めてこられました。ですが、現状ではそうした状況とは程遠い。いまのままでは、一般の結納にあたる『納采の儀』を経た結婚は、お認めにはならないのではないでしょうか。
 かといって、小室家側から国民の祝福につながるような誠実な動きは見られません。いまの状況では秋篠宮さまから結婚に向けた行動を起こされることは考えにくい」(別の皇室ジャーナリスト)
 いわば“手詰まり”ともいえる現状となっているのだ。

池谷式「プチ糖質制限」でお腹周りが細くなる

下記の記事は日経ウーマンからの借用(コピー)です

今より糖質を減らして、すっきりお腹になる
 家族で食事を取ることが多く、食事内容をガラリとは変えられず、食事制限はムリ──そんな人にぴったりなのが、医学博士の池谷敏郎さんが提唱する「プチ糖質制限」。「現代人の肥満のほとんどは糖質の取りすぎが原因。ただし、完全に糖質をオフにすると、体や脳を動かすためのエネルギーまでなくなり、ストレスによるリバウンドのリスクも増えます」
 そこで、池谷さんは糖質を現状の半量に減らすことを提案する。「ダイエットは食事法が9割。1日のトータルで減らすことができれば、外食やお酒もOKだし、ハードな運動も不要。約1カ月で、体重や腹囲を落とせますよ」
「肥満」ならプチ糖質制限にトライ
 まずは、自分の腹囲とBMIをチェック。腹囲90cm以上、BMI25以上の女性は「内臓脂肪型肥満」の可能性が大きい。過剰な内臓脂肪は生活習慣病を招く原因にもなるため、早めに今の食生活を見直して。
内蔵脂肪型肥満とは…
・腹囲 90cm以上(女性の場合。男性は85cm以上)
BMI 25以上

自分の「腹囲」を測ってみよう
 浅い呼吸をして腹部に力を入れない状態で、おへその位置でメジャーを巻き、腹囲を測る。一番細い位置でなく、おへその上を通るように注意。また、メジャーを腹部に食い込ませないこと。
BMIを計算してみよう
 腹囲を測ったら、BMIを計算。BMI25以上なら、ダイエットのペースは1カ月マイナス2~4kgを目標に。

BMI=体重(kg)÷身長(m)÷身長(m)
洋服のラインが気になるなら
 上記の「肥満」に当てはまらなくても、さらに絞りたい人はプチ糖質制限にトライしてOK。その場合は無理せず、1カ月マイナス2kgを目標に。
プチ糖質制限効果をUP! 1カ月間の体重&腹囲チェックシート
 糖質制限の効果を高めるために、「目標体重と腹囲」「毎日の体重」を1カ月間、記録してみよう。毎日、体重計をチェックすることでダイエットへの意識が高まり、食生活の見直しもできる。
4週間後の目標体重は何kg?
 BMI25以上の人は-2~4kg、25未満の人は-2kgを目安に設定。1週間後も変化がなければ、さらに糖質を減らして。
4週間後の目標腹囲は何cm?
 腹囲は1カ月で-2~4cm程度を目安にチャレンジ。こちらも続けても全く減らない場合は、さらに糖質を半量に。

1カ月で結果を出す食べ方 池谷式「プチ糖質制限

プチ糖質制限5つの基本
 プチ糖質制限の基本ルールは5つ。何を減らすか、食べる順番や食事にかける時間などの決まり事を順を追って紹介しよう。
基本1:1日で摂取する糖質を半分に減らす
 まずは、今まで食べていた糖質を「半分の量」に減らそう。「ご飯や麺、パンなどの主食だけでなく、イモ類や果物、お菓子など糖質を含む食品はすべて半量に。夕食やランチを減らすのが難しいときは『朝の主食』を完全に抜いて、トータルで半量にしてもOKです」。
【ポイント】
糖質を多く含む食品は、ズバリ「ご飯、麺、パン、イモ、フルーツ、スイーツ」。この「言葉」を暗記して、食事を取る前につぶやくことで、食べすぎを防ごう。
基本2:え、これも? 「隠れ糖質」を意識する
 他にも糖質を含む食品は意外と多い。「イモ類、レンコン、カボチャ、果物のほか、ちくわやかまぼこなどの練り物は糖質が高いので注意。ソースやケチャップなどの調味料もかけすぎないで」
【ポイント】
スポーツドリンクや市販の野菜ジュースといった飲料類、大豆バーやエナジーバー、シリアルなどといった「栄養調整食品」も、実は糖質が高めなので注意。
基本3:食事の量そのものは、極端に減らさない
 食事の量を極端に減らすと、ストレスがたまって挫折しやすい。「主食を減らした分、野菜や肉、魚、大豆類はしっかり食べること。たんぱく質が不足すると、筋肉が落ちて代謝が下がり、やせにくくなるので注意して」
基本4:食物繊維の多い食材から食べる
 糖質を先に取ると、血糖値が急上昇して太る原因になる。「血糖値の上昇を防ぐには、胃腸でネバネバした物質に変わる『水溶性食物繊維』から食べて。その後に食べる糖質の吸収を妨げ、血糖値の上昇を防げます」
【ポイント】
水溶性食物繊維は、昆布やワカメなどの海藻類、オクラ、アボカド、ゴボウ、干しシイタケやナメコに多く含まれる。
基本5:食事は15分以上かけて、ゆっくりと
 速食いは、血糖値の急上昇や食べすぎを招くので厳禁。「同じ量の糖質でも、速く食べたほうが血糖値は速く上昇します。咀嚼(そしゃく)すると満腹中枢の刺激になるので、よく噛みながら、最低でも15分以上かけて食べましょう」
「プチ糖質制限」実践中チャット公開!
 糖質制限が続かないライターKが、池谷さんにチャットで悩みを相談しながらプチ糖質制限を実践した。チャットでどんなやり取りをしたのかを大公開!
スタートして数日後
ライターK 仕事の食事会など、どうしても夕食が重くなる日が……。
池谷先生 予定を考えて、1日単位でバランスを取りましょう。夕食でガッツリ糖質を取る日は、朝食とランチを減らして調整を。毎食減らせなくても、1日のトータルで調整できればOKですよ。
スタートして2週間後
ライターK 2週間実行しても、腹囲が減ってきません……。
池谷先生 無意識に糖質を取っているかも。イモ類や果物などを取りすぎていませんか? 1〜2日、食べたものをすべて手帳に書き出して、無意識の食習慣を見直しましょう。
ライターK 忙しいと、手軽なパスタを作ってしまいがちですね。
池谷先生 コンビニのレトルト総菜の活用がおすすめ! コンビニでも低糖質メニューは可能です。レトルトのしょうが焼きなどたんぱく質のおかずと、多めのサラダをごはん代わりに組み合わせるといいですよ。
スタートして3週間後
ライターK おすすめの朝食メニューはありますか?
池谷先生 蒸し黒豆ヨーグルトとトマト甘酒をぜひ! 不足しがちな食物繊維やビタミン、ミネラルを含んだものを選びましょう。パンやご飯などの主食は抜いたほうがいいのですが、完全に朝食を抜くのはNGです。
【蒸し黒豆ヨーグルト】
スープボウル1杯の無糖のヨーグルトに、市販の蒸し黒豆を10粒程度トッピング。蒸し黒豆も甘くないもののほうがいいが、どうしても甘みが欲しい場合、3〜4粒のみ、甘いものに替えて。
【トマト甘酒】
トマトジュースと市販の甘酒を2:1の分量で合わせて混ぜる。トマトジュースが苦手な人にも飲みやすく、空腹感も和らぐ。冬はホットに、夏はアイスにするのがおすすめ。
ライターK 甘いものを食べるのは、絶対NGですか?
池谷先生 目標を達成した後なら、太りにくい時間帯である14〜18時の間に、甘いものを少量食べてもOKです。この時間帯は脂肪の分解を抑制し、体内にため込む働きのある遺伝子(BML1)の影響力が弱まり、太りにくいんです。
出典/榛葉繁紀監修『太らない時間に食べる!体内時計ダイエット』
池谷敏郎

医学博士
池谷医院院長。東京医科大学医学部卒業後、同大学病院第二内科に入局。循環器系の専門家として、テレビや雑誌、講演など多方面で活躍中。