izumiwakuhito’s blog

あなたでしたらどう思いますか?

不妊治療を経て子宮全摘 「産めないけれど、育てたい」

下記の記事は日経ウーマンからの借用(コピー)です

「普通の家族」って何だろう? 特別養子縁組で子どもを迎えた池田麻里奈さん(46歳)。30歳で不妊治療を始め、2度の流産と死産、子宮全摘の手術を受ける中で、「産めないけれど、育てることは諦めたくない」と考え、特別養子縁組で子どもを迎えることを決意しました。自らの体験を公表することで、特別養子縁組のことをもっと知ってほしいと願う池田さんが、不妊治療から養子を迎えるまでの経験、家族として暮らす日々を全3回で語ります。1回目は不妊治療から特別養子縁組を考えるまで。
「子どもはまだ?」の言葉に追い込まれていった
 結婚は28歳のとき、夫とは同じ職場でした。結婚適齢期ど真ん中だったので、割とトントンと進みました。結婚式の2次会では、「次は子どもね!!」という話題が早くも始まり、私たちは何も疑うことなく「3人欲しいです!」なんて無邪気に宣言していました。
 当時、私の未来設計というと、仕事とは全く別のところに「お母さんになる」ことが前提でありました。のちに、どうしてそんなにお母さんになりたいのか……という自分の気持ちと向き合う作業を余儀なくされるのですが、この頃は、「結婚して子どもを育てる」ということが私にとって当たり前でした。
 新婚夫婦の試練でしょうか……「次に帰省する時には“これ”でね」と赤ちゃんを抱っこするポーズをされたり、年賀状には「次はあなた!」「子ども早くつくりなよ」と直球の文字が並んだりしました。
 おそらく周囲は、プレッシャーを与えようなんて思いはなく、赤ちゃんの誕生をただ待ちわびていただけだと思います。徐々に期待に応えられない自分を情けなく思い、周りの人と顔を合わせるのが憂鬱になっていきました。毎月の排卵日にうるさく指示する私に、「焦りすぎだよ」と夫にまで言われるようになりました。最悪です。本来なら最愛の相手と結婚して暮らしているだけで幸せなのに。
頑張っているのにうまくいかない妊活。周囲の期待に応えられないことが苦しくなっていきました
 結婚から2年、不妊疑惑をもった私たちは産婦人科に訪れました。しかし結果は2人とも異常なし。だったらなんで妊娠しないの?
「異常なし」から始まった不妊治療
 病院に行けばなんとかなる、暗闇のトンネルから抜け出せると思ったのに、医師がすることといえば基礎体温表の排卵日に3日連続でハートマークをつけるくらい。恥ずかしさに耐えて(当時は恥ずかしかった!)不妊検査をしたのにやることは今までと変わらない。このモヤモヤがつらかった。
 努力しても効果ゼロという状態は経験したことがありません。友人が次々と子育てにシフトし、取り残されていく焦り。私より後に結婚した人が妊娠すると落ち込みました。
 気がつくと、治療を始めて5年。不妊専門クリニックに転院し、いつの間にか人工授精から体外受精とステップアップしていました。
キャリアも子育ても…自分だけが取り残されていく
 痛みを伴う治療や無機質な診察室で生命を宿すことに抵抗を感じ、「もうやめよう!」と思ったこともありました。でも、35歳を過ぎると妊孕(よう)性は下降すると訴えるメディアを目にすると、医療の手を借りてでもいい、助けてもらおう、早く子どもを授かりたい!と、提示される妊娠率の高い治療法に懸けてしまう自分がいました。
 卵子を多数採取するために排卵誘発剤の注射を肩に刺したとき、激痛と共に口の中まで薬の味が広がったのを覚えています。中にはひどい頭痛や吐き気、倦怠(けんたい)感を覚える人も。体外受精は過酷です。妊娠しないこと以外は至って健康なのに、心も体もしんどい状態でした。
 仕事はフルタイム。出版社で編集部に勤務していました。社会人として楽しくなってきた30代、バリバリ働く人の中で自分だけがどこか中途半端な立ち位置。子育てでキャリアを諦める女性がいますが、不妊治療で退職を考えることになるなんて。子どもが欲しいと願うのは夫婦2人なのに、治療で心身に負担がかかるのは女性ばかり。ちょっと不公平ですよね。
2度の流産、そして妊娠7カ月での死産
 1度は妊娠したものの、初期流産。「私たちでも妊娠できるんだね」と悲しい結果を前向きに捉えましたが、2度目も流産。それでも夫婦でなんとかこの苦難を乗り越えようとしたけれど、明るいニュースのないままではやっぱり限界があります。
 思い描いていた人生が止まってしまった……それくらい追い詰められていたのに、誰にも相談できずにいました。なぜでしょう。きっと、ひっそりと通院して普通の顔して妊娠したかったのかもしれません。自分の力で妊娠できないことは知られたくない。不妊を受け入れていないから声を出せず、周囲からの支援も得られない。孤独をつくっていたのは自分。夫にさえ、心の内を話せていたかというと、きっとこの悲しみや落胆を分かっているはずという思い込みがあり、あえて話し合うことはありませんでした。
 36歳の春に3度目の妊娠。けれど、妊娠7カ月検診でおなかの中で亡くなっていると告げられました。
「当たり前」に流されていたのは自分だった
 すでに亡くなっている赤ちゃんを産み、パパママとして書いた手紙を棺(ひつぎ)に入れ、わずかな時間を病室で過ごしました。忘れられない3人の時間です。
 「子どもを育ててこそ一人前」「女の幸せは子どもを産むこと」「子どもを育てていない人には分からない」
 不妊治療をしている頃は、こんな言葉に敏感に反応していた時期もありました。でも、あるときから、子どもがいる、いないだけで線を引くって「あまりにも雑なのでは?」と一歩引いて考えるようになりました。不妊に死産という経験をしたからこそ気づく世の中のことがある。その感覚は大事にしたいと思うようになったんです。私自身の遅めの成長でした。
 どうしてそんなに子どもが欲しいの? お母さんになりたいの?
 自問自答の日々は続きました。
「養子は考えていますか?」と聞かれて…
 以前、不妊当事者へのインタビューを受けたとき、「養子は考えていますか?」と聞かれた言葉が頭から離れなくなり、帰宅後に特別養子縁組について調べてみると、日本での成立件数は少なく、親と暮らせないほとんどの子どもが児童養護施設で暮らしていました(※)。0歳の赤ちゃんもです。
 実親がいても、面会がなかったり、親から暴力を受けたりした人は親に頼れません。ボランティアとしてそうした子どもたちと数年間交流しましたが、話を聞けば聞くほど「血のつながりとは一体何だろう」「家族とは何だろう」と考えさせられました。
※社会的養護が必要な約4万5000人の子どものうち、特別養子縁組が成立して家庭に迎えられるのは約1%の624件(2018年)
「産めないけれど、育てたいんだ!」と心が叫んだ
 特別養子縁組の制度は、子どもが安心して幸せに暮らすことのできる家庭を与えることだと私は思っています。
「養子を育てるのは大変だよ」
 そういう言葉をよく聞きますが、養子というだけで他の子と違うと線を引いてしまうから養子が生きづらくて大変になるんじゃないでしょうか。それに、「大変」であるなら、いつも味方になってくれる大人がなおさら必要ですよね。
 子どもにとって毎日一緒に過ごす親の存在は大きい。親戚の1人、通りすがりの1人、ボランティアの1人という関わりもありますが、私はやっぱり「親」になりたいと強く思うようになりました。特別養子縁組を自分のこととして考えるようになったのです。
 夫にはそれまで何度か養子縁組について打診してきましたが、消極的でした。「40歳まで不妊治療を続けてほしい」と言われ、それがいつの間にか「今の2人のままでも幸せだよ」に、すり替わっていました。後で分かったのですが、かわし続けていればいつか諦めるだろうと思っていたそうです。なんてことだ!
 30代後半から子宮腺筋症が悪化し、42歳のクリスマスに子宮全摘の手術のため入院しました。
 もう産めないだろうとこの数年覚悟はしていましたが、はっきりとそれが確定したとき、「産めないけれど、育てたいんだ!」という叫びのような感情が突き上がってきました。
子宮全摘の手術後、夫に渡した1通の手紙
 血のつながりがないことに不安はあります。でも、一緒に隣にいて支えになりたい。日々の積み重ねで家族になれるんじゃないかなって。
 手術室から病室に戻った直後、まだ麻酔でぼんやりしている私は1通の手紙を夫に渡しました。
 「楽しくしていても、笑っていても、子宮を失っても、子どもを育てたかった想いはこの先もずっと心の奥にある。私はあなたの夢を応援してきたし、その夢がかなうのは自分のことのようにうれしい。でも、私も、人生でしたいことがある。残りの人生を子どもを育てる時間に使いたい。……養子を考えてほしい」
 日本では特別養子縁組がまだ積極的に取り組まれていない現状で、ご縁があるかは分かりません。でも、ここまでの気持ちを、この先も人生を歩むパートナーに知っていてほしかった。
 夫は静かに「わかったよ」と言い、そこからは急展開。養子縁組の登録へと進むのでした。
池田麻里奈
いけだまりな
ハウススタジオオーナー/不妊カウンセラー/家族相談士
コウノトリこころの相談室」を主宰。30歳から10年以上不妊治療に取り組む。