izumiwakuhito’s blog

あなたでしたらどう思いますか?

「無職の息子」が介護するフリして「母の年金」で生活し始めた…そのヤバい末路

下記の記事は現代ビジネス講談社からの借用(コピー)です

親が老いて支援や介護が必要になってきたとき、きょうだいのことで悩む人が少なくありません。
きょうだいと言っても、独立して離れて暮らすようになってから何十年も経過し、価値観や考え方が変わっているのは当たり前。経済状況も家族構成もまったく違います。今回、紹介する首都圏在住のコウスケさん(仮名、50代)も親の介護ときょうだいのことで悩んでいました。
弟は「母親の年金」で生活をはじめた…
コウスケさんの母親(80代)は関西地方の実家で暮らしています。父親は二年半前に病気で他界。そのタイミングで、三歳年下の弟が「心配だから」と実家に戻りました。
母親がひとりで暮らすよりは、弟が一緒のほうが安心だとの思いから、コウスケさんは弟が実家に戻ることに口をはさみませんでした。
介護すると言ったウラで…
ただし弟は独身です。大卒で就職した勤務先が倒産して以来、職を転々としました。
「弟は飲食の仕事に就いており正月は仕事があって休めません。僕らは帰省のタイミングがあわなかったため、しばらく疎遠になっていました。父の葬儀で久しぶりに会いましたが、独身でフリーターだし、かえって弟のことが心配になりました」とコウスケさんは話します。
弟は実家に戻った当初こそ、仕事をみつけて働いていましたが、3か月ほどで辞めてしまいました。一度コウスケさんが電話を掛けると「お袋が弱っているので介護をしなきゃいけないから」と言いました。
ところが、です。
しばらくして母親からは「あの子が仕事をしない。年金を全部とられる」と電話がかかってきました。介護どころか、弟の食事まで母親が準備をしていたのです。
コウスケさんは帰省し、弟に対して「仕事を探せ。お袋の年金で生活するっていうのは、おかしいだろ」と注意しました。すると、弟は怒りだし、コウスケさんに対して「帰れ」と叫び出したそうです。
最初、とりなしていた母親も、「今日は、帰って」と言いました。わざわざ新幹線で行ったのに、母親は弟の言いなり。しかし、どうしようもなく、コウスケさんは少し様子を見ることにしたのです。
歩くこともままならなくなった母親
三か月後、コウスケさんが実家を訪れたところ、母親は床に臥せ、やつれたように見えました。やせたようにも見えます。家のなかは散らかったまま。キッチンにはコンビニ弁当の入れ物や、カップ麺、パンの袋が散乱していました。
家はちらかり… 
母親はコウスケさんにお茶を入れようと立ち上がりましたが、よろよろしており、慌ててコウスケさんが体を支えました。
コウスケさんは弟と話そうとしましたが、声を掛けても、返事はなし。弟は自分の部屋に閉じこもったままでした。
「母親は、そんな状況でも、弟のことをかばうんですよ。『あの子も、色々大変だから』と。このままでは母親はどんどん具合が悪くなってしまう。いったいどうすればいいんでしょう」とコウスケさんは頭を抱えるのでした。
暴力への「恐怖」
コウスケさんの母親のように、家庭内で起きている家族の問題を隠そうとする親は少なくありません。理由は様々です。
たとえば、この子がきちんとしないのは、親である自分の責任、というあきらめの気持ち。また、一緒に暮らしている以上、どうしようもなくなったら手を貸してくれるに違いないという希望的観測(頼りにしている)。
また、息子が悪いわけでなく、悪いのは具合が悪い自分だと考えることもあります。
また二人で暮らしているので、相手の機嫌を伺うようになります。ピリピリした空気の中では過ごしたくないという気持ちに加え、関係が悪化すると、逆らうと、暴力を振るわれるのではないかという恐怖心も出てきます。
ことを荒立てると、ご近所にトラブルが伝わり、やがて周囲から子どもが責め立てられるのではないかという不安。また、同時に仕事もせずに、ブラブラしている子を他人に見られるのは恥ずかしいという気持ち。
このような不安が母親の胸には交差しているものなのです。
しかし、隠そうとするほど、物事は悪化していきます。
無職の40代次男が老母を「虐待」の大ピンチに、長男の「意外すぎる行動」
私は90年代から介護の現場を取材し、そのリアルな現実や有益な情報を執筆や講演、NPO活動を通して紹介しています。
そうした中で、親の介護をめぐってきょうだいが悩みの種になるというケースは少なくありません。
今回、紹介する首都圏在住のコウスケさん(仮名、50代)も親の介護ときょうだいのことで悩む一人です。
関西に一人で住む母親が「心配だから」と、独身の弟が実家に戻って一緒に生活をし始めたのですが……。やがて弟は仕事もせず、母親の年金を使って生活をすようになって……。
しかし、それをとがめても母親も弟をかばおうとするので、コウスケさんは頭を抱えているのです。
母の年金が使われて…
高齢者虐待1万7000件という現実
そもそも必要なケアをせず、母親の心身の具合が悪くなれば、それはネグレクト(介護放棄)という高齢者虐待の一種だと考えられます。
厚生労働省の調査によると、家庭内での高齢者虐待は令和元年で約1万7000件に上っています。中には、高齢者が命を落とした案件もありました。
介護放棄が生じる家庭は、虐待を行う者と受ける者の2人暮らしのことがほとんど。虐待を行うのは「息子」が約4割と最も多く、次いで「夫」となっています。互いに負担を感じる介護の現場では、2人きりの生活は息苦しいものなのかもしれません。
筆者は相談先として、コウスケさんに地域包括支援センターを提示しました。「よくある話で、恥ずかしいことではない。包み隠さず気がかりなことは全部話して相談した方がいいですよ」と声をかけました。
地域のサービスを軽視してはいけない
その後、コウスケさんは母親の暮らす地元の地域包括支援センターで状況を説明、相談したそうです。
母親は介護保険の認定を受け、要介護1となりました。「小規模多機能居宅介護」というサービスを利用することになりました。「通所介護」を中心として、希望に応じて、「訪問介護」や「宿泊介護」のサービスを組み合わせて利用できるサービスです。母親は毎日のように通うようになり、表情が明るくなったそうです。
「弟が難癖をつけないかと恐れていたのですが、とんとん拍子で介護保険の認定がおりたし、支援センターの職員さんも、ケアマネさんも熱心に母を見てくれているので、弟は口を挟む余地がなかったようです」
家族関係が壊れる前に
コウスケさんは母親が宿泊介護を受ける日に、帰省して弟と酒を飲みながら話したそうです。
「弟は『介護保険って、使えるね。お袋が毎日のように出て行ってくれるから助かるよ』と言っていました。どの口が言ってんだと思いましたが、弟もどうしていいか分からなかったんですね。母親の心配がなくなり、弟も仕事をはじめることができました」
コウスケさんは安堵の表情を浮かべていました。
親の介護が始まると、疎遠になっているきょうだいとも向き合う必要がでてきます。それが結構大変で、「こんなことなら、一人っ子の方がまし」という声をしばしば聞きますが、愚痴ったところでどうしようもありません。
親にサポートが必要になったり、同居家族との雲行きが悪い様子を察知したりしたら、なるべく早い段階で、地域包括支援センターに相談しましょう。
ホームヘルプサービスやデイサービス、場合によっては施設入居で(仲が悪くなっている家族を)分離することも含め一緒に対応を考えてくれるでしょう。
家族だけで抱え込まず、専門職に関わってもらうことで、一気には難しくても少しずつ課題は解決の方向に向かうはずです。

リアル進撃の巨人 「郊外団地ウォール」の中で暮らす高齢者の現実

下記の記事は日経ビジネスオンラインからの借用(コピー)です

「分断? 言われてみればそんな感じかな。団地内には買い物以外、団地の外に行かない人もいれば、コロナ禍で引きこもっている人もいる」。東京都清瀬市の旭が丘団地で暮らすB氏(76)は話す。
 旭が丘団地は日本住宅公団(現UR都市機構)が建設し、1967年に入居が開始された大型郊外団地。東西800メートル以上にわたり40以上の棟が並ぶ高度経済成長期の団地の典型で、カンヌ国際映画祭に出品された是枝裕和監督の映画『海よりもまだ深く』の舞台になったことでも知られる。
 そんな旭が丘団地にB氏が入居したのは約45年前。「当時はみんな子育て世帯で、それはもうにぎやかだった」。しかし今、その面影はない。
 取材班が現地を訪れたのは、8月も終わりを迎える日曜の午後。高齢化でいわゆる「昭和の郊外団地」が活気を失いつつあることは、かねて認識していた。いざ足を運ぶと、団地全体がまるで眠っているかのような静けさ。想像以上だった。コロナ禍の影響もあるにせよ、人影は全くなく、セミの声だけが異常に響く。そんなとき、団地内の小さな広場に体を動かしに姿を見せたのがB氏だった。
団地どころか部屋からも出られない
 団地の光景を一変させた一因は、言うまでもなく高齢化だ。清瀬市団地の自治会によると、旭が丘団地に暮らす人に占める60歳以上の住民の割合は2008年10月時点でおよそ6割。17年時点では65歳以上の住民が69%に達し、60歳以上だと76%。4人に3人が60歳以上という超高齢化団地だ。
 「この団地にはエレベーターがないから、年を取ると階段の上り下りだけでひと苦労。車がない人だと、団地の外にすすんで出ようとは思わないでしょう。コロナが怖くて外出しない人も増えている。そりゃあ、分断もされるよ」(B氏)
 総人口に占める高齢者人口の比率を示す高齢化率が30%目前の日本。そんな世界に例を見ない超高齢化も、「人の移動」を滞らせる大きな要因になる。
 年を重ねれば、誰しも足腰が弱る。周辺地域の国際化エリアの増加などに関わりなく、日常的な行動範囲は狭まって当然だろう。
 国土交通省によると、全国にある3000近い団地のうち約3割が入居開始から40年以上が経過している。65歳以上の住民が居住者の3割を占める団地も半分近くあり、その多くは旭が丘団地の多くの住民と似た暮らしを送っている可能性が高い。
国交省によると全国の団地の約3割が入居開始から40年が過ぎている
 団地の中だけで暮らす生活は、若い人から見れば、単行本累計発行部数8500万部を突破した人気漫画『進撃の巨人』のウォール内での暮らしのように映るかもしれない。両者の違いの1つは、団地の住民の場合、えたいの知れない巨人などがうろついてなくても“壁の外”になかなか出られないことだろう。
 もっとも、たとえ団地の中と外で分断されていても、そこは集合住宅なのだから、隣近所の人と協力して暮らせば生活の大きな支障はないともいえる。だが、最近の郊外団地の中には入居率の低下により、そもそも「隣近所」がいないケースがある。旭が丘団地も例外ではなく、12年前に1800弱だった世帯数は、20年8月時点で約1600世帯まで減少。単身化も進む。
 「緑は多いし、静かだし、住みやすい。皆が年を取っても協力し合えば暮らしていける。しかし、人が減るとそう簡単にはいかなくなる」
 40年近く住み続けている団地自治会の古川満喜子会長(74歳)はこう話す。自治会によると、旭が丘団地の空室率は15%。特に階段の上り下りに労力を要する4階、5階は空室が目立つという。
 そして「人のいない郊外団地での生活」には、生活コストの思わぬ上昇も待ち受ける。例えば買い物。エリア内の居住者が減り、地域の小売業は採算が合わず撤退してしまえば、日常の買い物でもコストをかけて遠方に出向く必要が出てくる。
8月終わりの旭が丘団地。団地内の店舗の多くがシャッターを閉めていた
一度の買い物で、移動代4000円
 旭が丘団地でもかつて、団地中央部の商店街「あさひがおかグリーンモール」に青果店鮮魚店や書店、文具店などが所狭しと店を構え、伊勢丹系列のスーパーも営業していた。しかし今、理髪店や歯科医、診療所、接骨院などを除けば、シャッターが下りている。
 ではここに暮らす車を持たない高齢者は、どこで買い物をするのかと言えば、直線距離で約3km離れた西武池袋線清瀬駅まで行くのが1つの選択肢となる。
 バスは開通しており、所要時間は10分強。バスの本数は日中でも数分刻みであるが、「年を取ればバスの乗り降りも、荷物を運ぶのも大変。結局、タクシーを使うことが多くなる。私の場合は団地の場所もあって。普段は清瀬駅までタクシーで往復4000円かけて買い物に行くことが多い。団地の外に出て気晴らしになると言われればそれはそうだけど、年金暮らしに4000円は大きい」。手押し車を押した90歳の女性住民はこう訴える。
 「昭和の大型団地」の多くは商業施設を組み込みながら設計されており、入居者が減って店舗が撤退する事態など想定していないのだ。
分断されるだけならまだしも生活コストまで上昇し、暮らしのレベルが落ちかねない――。そんな事態はほかでも起きている。
 例えば多摩、八王子、町田、稲城の4市にまたがる首都圏最大級の住宅街、多摩ニュータウン京王多摩センター駅からバスで10分ほどの場所にある愛宕地区では、一部で高齢化率がすでに6割を超え、多摩市全体の28.6%を大きく上回る。地区内の2割前後は独居老人。以前は地域で誰かが亡くなれば、自治会長が喪服を着て香典を手渡していた。「でも今はそんなことをしていては切りがない」と、あたご地区自治連合協議会の広報担当を務める松本俊雄さん(72)はため息をつく。
 愛宕地区の状況は旭が丘団地とうり二つだ。地区内には「愛宕商店街」があるが、やはり多くの店舗でシャッターが下がったまま。以前は京王グループが運営するスーパー「京王ストア」があったが、2014年に撤退した。日常的な買い物ができる多摩センター駅までは直線距離で1~2kmだが、坂道が多く歩くにはつらい地形。車がなければバスか、結局タクシーに乗るしかない。
「空き家に囲まれる」という分断
 こうした戸建て住宅が集積するニュータウンや一般住宅街の場合、地域の高齢化と人口減少に直面した際、大型郊外団地にはない問題も発生する。団地の空き部屋に比べ、人が住まなくなった空き家の管理は一段と難しいからだ。
 「目の前の家はずっと空き家。相続関連でどうしようか親戚同士でもめているらしい」。東京世田谷区の小田急千歳船橋駅から歩いて約15分、千歳台エリアに住むC氏(72)はここ数年、近所の空き家が気になって仕方がない。最近は古い空き家だけでなく、築年数が浅い家でも散見するようになってきた。
 環八沿いに暮らすC氏は、たとえ今後、地域の高齢化が進んでも、周囲から商業施設が消え、自分が買い物難民になるような事態に陥るとはさすがに思っていない。不安なのは自宅の周辺に空き家が増えることだ。「例えば偶然にも、前後左右が 空いてしまえば、防犯面や環境面で様々な問題が生じる。そういう意味での分断の方が怖い」(C氏)
 高齢化などを背景に全国で増え続ける空き家。2018年の住宅・土地統計調査によると、総住宅に占める空き家率は全国平均で13.6%と過去最大を更新した。
 首都圏内の空き家が多いエリアを、地域内の住宅に占める「空き家比率」で調べてみると、比率が高いエリアは首都圏でもやはり周辺部に偏っている。神奈川県では湯河原町三浦市、逗子市などで、千葉県でも空き家比率が高いのは房総半島の先端エリアだ。

患者さんには「医療安全」に則したきめ細かな対応が必要

下記の記事は日刊ゲンダイデジタルからの借用(コピー)です

 患者さんを守る「医療安全」や、「EBM」(Evidence Based Medicine=根拠に基づく医療)に沿ったガイドラインや標準治療について、患者さん自身が情報を入手できるようになったことで、医療者側はよりきめ細かな対応が求められています。何かトラブルが起こってしまったときに、患者さんやその家族がまるでクレーマーのように無理難題を突きつけてくるケースもあります。

 もしも自分が患者さんや家族の立場だったら、同じような言葉を口にするかもしれないと思うところもあります。だからこそ、医療者側にはよりきめ細かな医療安全的な対応が必要になってきます。手術や治療を行う前に、起こりうるさまざまなケースを想定してリスクについて丁寧に説明を繰り返し、患者さんや家族に納得してもらえているかどうかが重要です。

 仮にあんなトラブルやこんなトラブルが起こったとしたら、それはもう患者さんが日常生活で歩いているときに自分で転んでしまったレベル――そう言えるくらいきちんと納得してもらっておく必要があるのです。

仮に手術して患者さんが亡くなってしまったり、非常に重い後遺症を残すような状況になってしまった場合、家族や患者さん本人はそうそう納得はできません。ですから、医療者側は事前に予測されるリスクについて正直に包み隠さず話しておき、そうしたリスクがあることがわかっていて手術という契約を結ぶという手続きを取ります。その上で、もしも後遺症という新たな問題が起こってしまったら、そちらに対する治療が加えて必要になり、回復の遅延を招くのはそちらであることを理解していただかねばなりません。

 患者さん側から見た場合、医療安全にのっとったきめ細かい説明をしてもらえない医療機関では、万が一のときに自分を守ってもらえない恐れもあります。そういうときは、複数の医師に治療方針を聞いてみるセカンドオピニオンを受けてみるのもひとつの方法です。

 患者さん自身が「自分を治せるのはこの治療しかないんだ」といった一点集中の思い込みをすることなく複眼的な視点を持ったうえで、実際に説明を聞いて信頼できると感じる病院や、この人が組織するチームなら手術を受けてもいいかなと思える医師を選ぶことが自身を守ることにつながります。

■常に「患者を守る側」に立つ

 もちろん、患者さん側から質問したり、要望を伝えたりといった主張をしても問題ありません。その主張を受け入れて、医療機関側が正しく対応してくれるかどうかを判断してください。たとえば、私が患者さんから僧帽弁閉鎖不全症に対する小切開心臓手術「MICS」(ミックス)について、「先生はどれくらいミックスの経験があるんですか?」と聞かれた場合、正直に「30例くらいです」と回答します。数年前までは、手がけてこなかった手術法なので、まだ症例数が少ないのです。

 もし、ここで「300例ほどあります」と答えてしまえばウソつきになってしまいます。たとえ患者さんに不安を抱かせないようにしようという意図があったとしても、医療安全の考え方に反しています。これでは患者さんから信頼を得ることはできません。正直に丁寧に説明をすることで、患者さんから「症例数が少なくても、この先生なら安心して任せられる」と信頼されることが大切です。

医療安全という観点から重要なポイントをまとめると次の3つになります。①手術や治療を行う前に、想定されるリスクについて丁寧に説明を繰り返し、患者さんや家族に納得してもらう②もしもトラブルが起こってしまったら、できる限り早く真実を伝える③常に患者さんを守る側に立っている。この3つさえ正しく実行できていれば、大きな問題は起こりません。また、患者さんからしても、予想もできないくらい深刻な事態を招くことは起こらないといえるでしょう。

天野篤
順天堂大学医学部心臓血管外科教授

私の引きこもり生活がある日ふと終わったワケ

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

――不登校になったのはいつからですか?
きっぱり行かなくなったのは、小学校4年生の9月1日からですね。でも思い返すと小3ぐらいから学校がしんどかったなと思います。まじめで几帳面な性格だったんです。小学校中学年になると宿題やミニテストが増えてくるんですが、先生の言うことやまわりの空気を読み取って完璧にこなそうとしていました。
当記事は不登校新聞の提供記事です
たとえばノートに10種類の漢字を5回ずつ書く宿題があると、チラシの裏に何十回も練習してからノートに清書していましたね。
ほかにも、女の子たちと同じものは好きじゃなかったし、あんまり明るい性格でもなかったから、目立つ子たちから嫌がらせや陰口を言われてハブられるようになったんです。
小4夏休み明け“体が動かない”
仲のよい子はいましたけど、どんどん疲れていきました。それでも小3の1年間と小4の1学期は行ったり行かなかったりの「五月雨登校」を続けていました。完璧主義だったので、行くからにはキッチリやらなきゃいけなかったし、学校へ行かなければ自分には価値がないと思っていたんです。
でも、小4の夏休み明けに、学校へ行こうと思ったら、起きられない、体が動かない、パジャマから着替えられないという状況になりました。
親には学校がしんどい理由を言えなかったですね。自分でも整理できていないから表現できないし、当時は「理由がわからなかった」というのが本当のところです。今こうやって話せているのは、大人になってふり返れるようになったからだと思います。
――不登校になったとき、ご家族の反応はどうでしたか?
母も最初のうちは「着替えなさい」「ちゃんとご飯食べなさい」「学校の時間はテレビ観ちゃダメ」みたいな感じでした。だから家にいても学校のプリントやミニテストで勉強していましたね。
家で勉強するのはイヤでしたが「ただでさえ学校へ行ってないのに、こんなに不真面目になった」という引け目があったからです。そういう自己否定感がありました。
適応指導教室に通う生活へ
そのうち適応指導教室(現・教育支援センター)というのが近くにあるのを見つけて行くことになったんです。部屋に入ると、ちょうど同い年くらいの女の子や、ちょっと上のお姉さんが数人いました。お絵描きが好きでおとなしそうな、安心して話せる感じの不登校の子たちでした。
自分以外にも不登校の子がいて、みんな不まじめなわけじゃない、仲間がいるんだと思って心強かったですね。仲間に会えたという意味では、適応指導教室があってよかったと思っています。
その適応指導教室には週に1回、自分の予定を決めるという時間がありました。ずっと遊んでいてもいいんですが、まわりの子が給食や好きな授業時間、放課後だけ学校へ行くという予定を書いていたんですよね。
ほかの人の予定を見て、私も週に3回くらい給食登校をしていました。
――不登校の子への対応はどんな感じでしたか。
適応指導教室ですから学校へ戻そうという働きかけはつねにありましたよ。
私の通った適応指導教室は、文字どおり「学校への適応」を指導するところでした。給食登校も、ただ給食を食べに行くだけじゃないんです。学校復帰のためのワンステップに位置づけられていました。
そういう指導のなかでは「今度、授業へ行ってみない」と聞かれたら、行くしかなかったんです。だって断れない人間だったし、行かないと自分で自分を認められる要素がなくなってしまう。
「行ってみたら」という声がけは、私にとっては「行きなさい」と、ほぼ同義でした。
そんな生活を続けていましたが、小6の春か夏ごろに、今までがんばって張りつめていたものがパチンと切れてひきこもりました。お風呂にすら入らず、昼間は寝ていました。食事も冷蔵庫のものを全部食べる日もあれば、一日中何も食べない日もありました。
――なんで昼夜逆転しちゃうんでしょうか。
朝は一般社会の動き出すときだからイヤなんです。自分と同じくらいの年齢の子たちが目の前の道路を通ったりするから。でも夜は静かで「こうしなきゃいけない」のある世の中からちょっと離れた感じがするんです。
みんなとちがう世界にいられる夜は居心地がよいので、自然に昼夜逆転していきました。
朝食の準備をしている母に、夜中のテレビやラジオ番組の内容を話し続け「あぁスッキリした! 寝るわ」と言って自分の部屋にこもる生活でしたね。
母は「そうなんだ」「へぇ」と言って、ただ聞いてくれていました。今思い返してみると、どんなときも母は何も言わなかったですね。どんなに長いあいだ、お風呂に入ってなくても「お風呂に入ったら」とは言わなかったです。
――お母さんが聞くだけでいてくれたんですね。
母がすべてを受けいれてくれたので、落ち着きましたね。だからひきこもっていた時間は、今の自分のことを精いっぱい考えられた時間でした。ひきこもって本当によかったと思っています。あのまま流されるままに生きていたら、手首を切っていたんじゃないかなと思います。
私は不登校だけでなく、ひきこもりも肯定しています。ひきこもりって「健全なひきこもり」と「不健全なひきこもり」があると思うんです。健全なひきこもりは家のなかを居心地よく感じていて、自由にすごせます。
一方で「ちゃんとしなさい」とか「いつまで寝てるの」という空気が家のなかにあって、子どもが追いつめられちゃうのはひきこもりのほうが「不健全だな」と。
事件で見聞きするようなひきこもりは「不健全さ」ゆえに追いつめられたからだと思っています。
親の気持ちが外に向かうと
――でも不登校で子どもが家にいると親もストレスがたまります。将来の見えない不安もあるし……、どうしたらいいんでしょう。
私がひきこもったころ、母は親の会を立ち上げたんです。その親の会などで学んでいたんだと思います。
それと母は押し花が好きで、家にいないことも多かったんですね。家でも外でもいつも楽しそうにしている母の姿を見ていました。だからお母さんは家にいないほうがよいと思うんですよね。
お母さんは好きなことのために家にいない、子どもは家や安心できる居場所ですごすというのがベストじゃないでしょうか。
――ひきこもりはどうやって終わったんですか。
自然に終わりました。小6の春に、兄と楽しく遊んでいたころの夢を見たんです。目が覚めて「楽しいときがあったなぁ」と思い、兄弟で遊ぶために外に出てみたんです。
こんなふうにパッと外に出られたのは「ゆっくり休めた」からだと思っています。ひきこもってゆっくり休めたからこそ、外に出られたんですよね。
ひきこもりを終えてから「○○しなきゃいけない」という気持ちは、少しやわらいでいました。給食登校をしなくてもいい、適応指導教室だけですごしてもいい。そう思えるようになり、中学生時代は、家と適応指導教室と学校、3つの場を行き来していました。
学校を休んでも大丈夫だよ
――最後に不登校や学校に行きたくない子に向けてメッセージをお願いします。
学校は休んでいいよってことですね。でも、そういう子たちってどんなこと言われても届かないと思うんですよね。だから保護者の方に向けてのメッセージにします! 
学校に行かなくても、大人になる道はいくらでもあることを伝えたいです。内申書がなくても受けられる高校はたくさんありますし、私が卒業した高校は入学試験もありませんでした。フリースクールという道だってある。もし学歴が心配だったら「高等学校卒業程度認定試験」もありますね。
高校へ行かずに就職している大人や、フリースクールに通ったことで不登校を1ミリも否定的に捉えていない人もたくさんいます。それに学歴をつけなくても安心できる居場所で安心できる仲間たちとすごしていたら、いくらでも楽しい大人になれるんです。
楽しくすごしていた人は、どこに行っても楽しめるから平気なんですよね。子どもは自分のことを自分でちゃんと考えて、自分に合った道を自分で探します。
だから保護者の方も、情報収集をして高校以外にも進める道がたくさんあることを知ってほしいです。

瀬戸内寂聴「100歳」を理由に言い訳!? 「いい気持よ」と感慨も

下記の記事はAERAdotからの借用(コピー)です

 半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。

*  *  *
横尾忠則「極楽トンボでコロナと共生共存しよう」

 セトウチさん

 2021年が明けましたね。顔面は如何ですか。もうすっきりされたと思いますが? 僕は数年前、顔面神経麻痺(まひ)になってあわや福笑い顔になるところでした。その少し前に描いた自画像は目鼻口がキュビズムみたいにデタラメに付いた絵でした。そしてその通りになりました。想念は一度四次元を通過して三次元に物質現象となって現れます。だからデタラメの想像は危険です。ですから、セトウチさんもスッキリした美人顔を過去完了形で想念して下さい。必ず想(おも)い通りになります。

 コロナは最低最悪ですが、日夜このことを思念すると、相手のコロナはますます、増長します。無視しましょう。と言う僕はムチャクチャの絵を描いています。画家に転向した時ムチャクチャからスタートして、少し見れる絵を描いたら、それに飽きて、またムチャクチャの絵にマッシグラです。ガキの描いた絵のような色も形もテーマもテクニックも全てデタラメを目指しています。というか身体が言うことをきかないので、その言うことのきかない身体にまかせた結果がムチャクチャというわけです。

 と、そんな風に居直ったら、ええ絵を描こうという気が抜けてしまったので気分爽快です。最初から腐(くさ)される絵を目的にしているので気が楽になりました。このまま子供になってしまいたいですね。意欲、好奇心、努力、やる気、評価、ガンバリをはずすと、なんと楽なことでしょう。アホになったのか悟ったのかその境界がない状態です。そのアホ悟り作品が今年は名古屋、大分、東京を巡回します。2022年は上海の現代美術館での個展が控えています。東京ではうんと下手くそな新作20点も発表します。

セトウチさんの百歳目前も驚きますが、僕はもう歳を忘れることにしました。セトウチさんとは競えませんからね。もう、歳のこと言わんことにしました。死ぬ時は何歳で死んでも百歳だと思いましょう。魂がこの世に肉体化した時から数えると、46億年です。地球とどっこいどっこいの年齢です。そう思えば、肉体年齢はあってないようなものです。人間は肉体年齢にしばられているから、年齢を気にするんです。だから、逆にそこに芸術が発生するのかも知れませんねえ。芸術の発生のために人間には年齢が必要なのかも知れませんが、死んだら人間の作った芸術なんて、ちっぽけなもので、死者から見ればどうでもええことだと思いますよ。

 まして、世の中の出来事を白黒で論じようとしていることが、何ほどの役に立つんですかね。死んだ時に問われるのはそのような思想や理屈ではなく、自分がどう生きたかという小さい問題が意外と向こうでは大きい問題として評価されるんじゃないでしょうか。ダンテの『神曲』でダンテが、地獄、煉獄(れんごく)を旅させられながら巡る時、生前、社会的に功績を残した人が、意外と自分のエゴで地獄のどん底で苦しめられていたりしているけれど、あれが比喩だとしても笑えないリアリティがありますよね。と考えると、今年もコロナと共生共存しながら、ほどほどに生きていければ、よしとするしかないんじゃないでしょうか。となるとラテン的極楽トンボで生きたいと思います。今日はこの辺で。

瀬戸内寂聴「百になってみてごらんなさい いい気持よ」

 ヨコオさん

 新しい年が明け、早くも一か月が過ぎようとしています。京都は今年は無闇(むやみ)に寒くて、朝、庭が雪で真白(まっしろ)になっている日が多いです。

 奥嵯峨と呼ばれるこのあたりの寒気はきつく、数え百歳の年寄には、さすがに応えます。今年に入って、私は二言目には「百になったから…」を口癖にしています。大正十一年、千九百二十二年生まれの私は、今年数えで百歳になったのですよ。まさかね、私が百歳なんて!!

 うちのスタッフたちは、私の新語にすでに馴(な)れきって、私がそれを口実に、仕事を遅らせたり、昼過ぎまで起きなかったりしても、「ハイ! 百婆さん、そこに居たら掃除の邪魔になります」と、電気掃除機の柄を容赦なく、私目掛けて掃きつけてきます。

 編集者も、もはや原稿の遅れの理由に、「何しろ、百になったからねえ…」と言いかけても、聞(きこ)えなかったふりをして、冷たいさいそくの口調をゆるめたりはしてくれません。百歳なんて、この地球では、もう珍しい出来事ではなくなっています。新聞の死亡通知に、故人の年齢が百いくつとあっても、「あ、そう」と、口の中でつぶやきもしません。

 でも、まあ、百になってみてごらんなさい。ちょっと、いい気持(きもち)ですよ!!

 私はもう、これから死んでも、百いくつと逢(あ)う人ごとに言うつもりです。

 ところで、この往復書簡はよくつづきますね。天才の気まぐれのヨコオさんがつづけるのも不思議なら、飽きっぽい代表選手の私が、黙々とつづけているのも、もっと不思議です。

 今年こそヨコオさんに倣って日記をつけようと大決心をしたのに、一日だけ長々書いて、二日からは、頁(ページ)は真白です。この飽きっぽさ名人の私が、原稿を書くことだけは、七十年近くつづいているのが不思議です。大人になったら小説家になろうとは、誰にすすめられたわけでなく、小学校の二年生あたりから、はっきり決めていました。

 その頃の小学校は、二年生から「綴(つづ)り方」の時間があったのです。私は「綴り方」が大好きで、いつも、先生が私の綴り方をほめてくれていました。この先生がお産で学校を休み、代(かわ)りにどこかの若い先生が来るようになりました。

 この先生は、私の綴り方を見たとたん、私を教員室に呼びつけて、どの本から、この文章を盗んできたかと叱りつけました。こんなりっぱな文章が、二年生のお前に書ける筈(はず)はないと責めるのです。私は泣きだして教員室を飛び出し、走って五、六分のわが家に駆け込み、口惜しさを泣いて母に訴えました。聞き終わるなり、母は割烹着(かっぽうぎ)をつけたまま、私の手を取って小学校へ走り、教員室で若い先生に噛(か)みつきました。「うちの子は生(うま)れつき文才に恵まれて、こんな綴り方くらいお茶の子さいさい。将来は小説家になるつもりでいる」とわめく母を見て、私の将来は決(きま)りました。この母が生れつきそそっかしくて、徳島が空襲された時、日本はもう負けたと、早合点して、防空壕(ごう)から出ず、五十一歳で焼死してしまったのです。近くあの世で逢ったら、「百まで生きるなんて、何と不細工な!!」と笑われることでしょう。はい、では、またね。

がん遺伝子狙い撃ち、薬の弱点補うナノマシン 実現

下記の記事はビヨンドヘルスからの借用(コピー)です  記事はテキストに変換していますから画像は出ません

 がん遺伝子を狙い撃ちにする新しいタイプのがん治療ナノマシンが開発された。抗がん剤の弱点をカバーするナノマシンである。ナノ医療イノベーションセンター(iCONM)が、東京大学耳鼻咽喉科学・頭頸部外科学および同工学系研究科バイオエンジニアリング専攻との共同研究により実現した。
 今回の成果は、2021年2月24日に米国化学会発行のナノ専門誌『ACS Nano』で発表。筆頭著者である東京大学耳鼻咽喉科学・頭頸部外科学の柴崎仁志氏らが、同20日に実施したオンラインセミナーでその詳細を報告した。
実用化されづらい薬剤の効果引き出す
 かねてナノ医療イノベーションセンターは「体内病院」を目指し、診断や治療などの医療機能を人体内で完結させる技術開発を進めている。武器になるのは、30n~100nmというウイルスサイズのカプセル。「スマートナノマシン」と呼んでおり、あたかも機械のように体内でふるまう特徴がある。
イメージ画像(出所:Getty Images)
 具体的には、高分子化合物が水をはじく疎水性の部分と水になじむ親水性の部分を持つことで自己組織化する原理を応用したものである。泡状の「ミセル」と呼ばれる形状になる際に、その内部に薬剤などを封入できる。
 これまでは、このナノマシンを固形がんの治療に応用してきたが、今回ターゲットとしたのはがん遺伝子。がんを引き起こす「c-Myc」という遺伝子で、c-Mycに変異があると細胞内でたんぱく質が過剰に作られ、際限ない細胞増殖につながる。がん遺伝子の中でも重要なものだ。
 柴崎氏らは、c-Mycの働きを2010年に開発された「JQ1」という薬剤により抑制することを目指した。ただし、腎臓から速やかに排泄されるため、体にとどまりづらい。そのため抗がん剤として実用化しづらい。水に溶けないのもネックで、持続的にがんへの効果を保てないという弱点もあった。
 この壁を乗り越えるために活用したのがナノマシンの技術というわけだ。JQ1の構造を一部変化させたJQ1ハイドロダイド(JQ1H)に変化させた上で、リンカーを介してナノマシンを形成する高分子化合物に結合させた。すると、高分子化合物ごとミセルの形状になり、ナノマシンの内部にJQ1Hを封入できる。
体内の病巣に薬剤をピンポイントで届けるナノマシン(出所:iCONM)
 がんにおいては周囲の血管が未熟であるために、血管壁の隙間が大きい。血液中に入ったナノマシンは浸透しやすいがん細胞の周囲に集中。ナノマシンはがん細胞に取り込まれ、がん細胞ならではの酸性度の高さに反応して内部で薬を放出する。薬はがん細胞以外に効果を示しづらいので副作用も少なく安全性が高められる。
 柴崎氏は、ナノマシンが確かにがん周囲に集中することを動物実験により確認。抗腫瘍効果が発揮されることも確認した。肝臓や腎臓への副作用もナノマシンにすることで出づらくなると確認できたとしている。
がん遺伝子の多寡でナノマシンを使い分け
 さらに、柴崎氏は、高分子化合物からJQ1Hをすばやく放出するファストリリース(FR)と、ゆっくりと放出するスローリリース(SR)の2種類を作り出した。意外だったのは、c-Mycが高いがんでは、FRタイプが効果を発揮したのに対して、c-Mycが低いがんでは、SRタイプが効果を発揮するという違いが見られたことだという。
 柴崎氏は「c-Mycが高いがんでは、速やかな薬剤放出ががんの細胞死を誘導する。それに対して、c-Mycが低いがんでは、持続的な薬剤放出が効果を示し、がんの細胞死が誘導される」と説明する。
 がん遺伝子の発現量に応じて、最適な薬剤放出パターンを選べるのはこれまでにない標的治療を可能にするものになる。プレシジョンメディシンと呼ばれる考え方では、がんの遺伝子に合わせて治療を行う。今回の研究に携わるiCONM主幹研究員の喜納宏昭氏は、「開発したドラッグデリバリーシステムでは、薬を素早く出したり、徐々に出したりと使い分けられる。がん遺伝子の程度の高い低いによらず、難治がんに効果的に作用可能になる」と展望し。

精神病院に4年閉じ込められた彼女の壮絶体験

下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

精神疾患により医療機関にかかっている患者数は日本中で400万人を超えている。そして精神病床への入院患者数は約28万人、精神病床は約34万床あり、世界の5分の1を占めるとされる(数字は2017年時点)。人口当たりで見ても世界でダントツに多いことを背景として、現場では長期入院や身体拘束など人権上の問題が山積している。
まずは精神科病院の「深い闇」に分け入っていきたい。
「2度とここから出られないと…」
世間では正月休みが明けたばかりの、1月6日午前10時。米田恵子さん(42歳)は東京都八王子市にある精神科病院「多摩病院」(持田政彦院長)から退院した。2016年2月の入院から、すでに4年近くの歳月が流れていた。
「まだ夢を見ているような感じで、日常のささいなことがすごく幸せです」
この連載は今回が初回です
退院から10日ほどたった1月半ば。取材に応じた米田さんは、そう笑顔で話した。病院では週に1度しか食べられなかった好物の麺類を好きなときに食べたり、少し夜更かしをしてテレビを見たりすることに、幸せを覚える日々だという。「何よりいちばんの幸せは、家族や友人と自由に連絡が取れることです」。
「逆に今のほうが本当は夢で、目が覚めたらやっぱり現実は閉鎖病棟内のままだった、と想像すると、怖くなって泣き出しそうになります。入院しているときは外で生活しているイメージがまったくできなくて、声を上げても誰も助けてくれず、2度とここから出られないと思ったこともありましたから」
米田さんはそう振り返ったあと、語気を強める。
「この4年間、家族とは面会はおろか、声を聞くことすらかないませんでした。入院当時、中学1年生だった次男は今では高校生。すっかり声変わりしていて成長がうれしい半面、一緒にいられなかった悲しみもあります。人生の貴重な時間を奪った病院のことは、決して許せません」
30代から40代にかけての、この4年間。米田さんが長期入院を余儀なくされた背景にはいったい何があったのか。
米田さんには男の子2人、女の子5人の計7人の子どもがいた。そのうち長女と次女は離婚した夫が親権を有している。2013年1月、地元の八王子児童相談所は、生後数ヵ月の四女を保護した。米田さんがうつ傾向にあり、一時パニック障害を生じ通院していたことから養育が難しいと判断したとみられる。その数日後、四女が救急搬送された病院で急死したと児相職員から告げられた。「乳児突然死」だった。
入院の前年である2015年、彼女にとってショッキングな出来事が相次いだ。1月には生まれたばかりの五女が、ついで9月には三女が、八王子児相に保護されていった。つまり米田さんにとってみれば、その保護下で四女を亡くした児相に、三女と五女も奪われたことになる。
「娘のなかでも、一番長くママをさせてくれた三女が、小学2年生のかわいい盛りに奪われたショックは言葉にできません。このとき以来、自分を責め精神的に追い詰められてしまいました」
その結果、精神安定剤などをオーバードーズ(大量服薬)したことで、2016年2月に多摩病院へ入院することになった。
「あなたのことを信用していません」
「入院当初はすぐに退院できるものだと思っていました」
米田さんは入院から数カ月後には、作業療法のプログラムに参加するなど順調に体調を戻していた。通常はそこから、院内散歩、院外散歩、そして外出、外泊へと少しずつ行動領域を広げ、3カ月程度で退院する患者が多かったためだ。ところが同時期に院内の関係者間で開かれた「退院支援委員会」に出席した彼女は、主治医の言葉に耳を疑った。
「何でも自分の思うとおりになると思わないでください。私はあなたのことを信用していません」
後日、手元に届いた通知には、退院の見通しが立つまで、まだ1年近くかかると記されており、院内散歩すら認められなかった。思った以上に長い入院計画に驚いたのは、入院に同意した米田さんの妹も同様だった。「せいぜい1~2カ月だろうと思ったのでサインしたのに、まさかこんなに長くなるとは思わなかった」。
入院からほぼ1年経つころ、妹は面談した主治医からこう告げられた。「お姉さんの入院は社会的制裁です。退院するとあなたや社会に迷惑をかけることになる。市役所も児童相談所もこれに同意しています」。
この主治医が米田さんに付けた診断名は「パーソナリティ障害」。実際、主治医からはたびたび、「あなたはほかの患者を支配する『操作性』がある」と指摘されていた。
統合失調症認知症の人のなかには、相手との意思疎通や自己主張がうまくできない人がいます。私は病院スタッフの代わりに相談に乗ったり、病院への不満も聞いてそれを伝えたりする役も担っていたので、それが操作的とみられたのかも」。米田さんに思い当たる節は、それしかないという。
「そもそもパーソナリティ障害では通常は入院の適応とはならない。よほど社会的不適応性が大きいとすれば別だが、だとしたら長期入院などできないはずなので、やはり一般的ではない」。以前、別の精神科病院の院長だった、ことぶき共同診療所の越智祥太医師はそう疑問を呈する。
入院中のつらい思いを書きつづったノート。犬のぬいぐるみは米田さんが制作。院内のイベントではスタッフ同様に働いたという(記者撮影)
米田さんは4年間のほとんどを、4人の相部屋の病室で過ごした。うち2人が統合失調症で夜中に大声を上げることも多く、不眠に悩まされていた。そうした状況を主治医に訴え睡眠薬の処方を依頼したところ、「あなたは病気ではないから、薬は出さない」と言われたという。
実際、彼女が入院中に服薬していたのは鉄剤と耳鳴りの漢方薬などで、頓服で出されていた精神安定剤は1度も用いることはなかった。向精神薬等の薬物治療は4年間いっさい受けておらず、一般的な作業療法以外の治療プログラムもとくになかった。そのため看護師たちからも「米ちゃん、なんでここにいるの?」「米ちゃん、ぜんぜん病気に見えないんだけど」と不思議がられたという。
「面談した主治医からは、彼女には薬物治療も治療プログラムもないとはっきり言われ、ではなぜ退院できないのかと尋ねたら、『この人は操作的なんです』『人を支配しようとする』と言われ、これではまったく話にならないと感じた」。米田さんの退院を支援してきた、佐々木信夫弁護士はそう振り返る。
「4年間で湯船につかったのは数回だけ」
閉鎖病棟内の生活においては、制約が多岐にわたる。
入浴は火曜、金曜午前中の週2回だけ。しかも4人一組で入り、制限時間は15分だ。一時は要介護者の入浴介助を男性スタッフが行い、浴室内で鉢合わせすることすらあった。
また男女交代制でその間の湯の交換が途中からなくなったことや、要介護者が湯を汚してしまうこともあり、「家ではぬるま湯で1時間ぐらいリラックスするのが楽しみだったが、4年間で湯船につかったのは数回だけ。頭皮のかゆみが悪化して、せめて手のかからない自立の人だけでも、週3回にしてほしいと交渉したけど駄目でした」。
食事も同様だ。「好物の牛肉やパンはほとんどメニューに入らず、パサついた鶏肉が多くて、あまり口に合わなかった」。代わりに売店で売っているスナック菓子やせんべいなどで空腹を紛らわせることもよくあった。ただし、「開いているのは週3日。またアメやガムなどは職員用に制限されていた」。
夕食後はテレビを見て過ごしたが、それは21時の消灯までだ。「夜9時に寝るなんて小学生以来で、4年近く病院での生活が続いても最後まですぐには眠れませんでした」。
最もつらかったのが、この4年の間、ほとんど外部と連絡が取れなかったことだ。主治医の指示で、友人・知人はおろか、子どもや親族ともいっさいの面会、そして通話すらできなかった。スマートフォンの持ち込みも禁じられたため、メールやSNSでのやりとりもできず、唯一許された外部との通信手段は手紙だけだった。
「刑務所だって直接面会できるのに、それ以下の扱いですね」。妹が主治医にそう詰め寄ると、「そんなことはない」とかわされたという。
ごまんとあるケース
インターネットも使えないため、情報収集には苦労したが、それでも患者同士の口コミなどで精神障害者の当事者団体などを知り、めげずに手紙を出し続けたことで、佐々木弁護士ら支援者たちとつながることができた。弁護士との面会は、病院側も制限できない。
さらに米田さんにとって幸運だったのが、昨年春に主治医が代わったことだった。その後、昨年8月には唯一妹とだけは面会や電話が可能となり、9月には病院敷地内での外出、その後は院外外出も可能となるなど、入院から3年半止まっていた時間が、一気に動き出した。
昨年10月からは病院、役所、弁護士、そして米田さんを交えて退院に向けた面談が始まった。家族の元に帰りたいと訴える米田さんに対して、病院と役所はグループホームへの入居を提案するなど、退院こそ認めるものの、あくまで彼女を管理下に置き続けることを求めた。妹や弁護士のバックアップもあり、交渉の末、最終的には自宅への退院が認められた。
「米田さんは自分から声をあげることができたからよかったが、精神科に入院している場合、まず弁護士につながることが非常に難しい。今回弁護士が介入しても、病院側は『社会に迷惑をかける』などと極めて抽象的で法的に根拠のない理由を繰り返し、なかなか話が進まなかった。医師は『まだ不安定だ』などとも言うが、4年近く閉鎖病棟にいればむしろ不安定にならないほうがおかしい」。佐々木弁護士とともに米田さんを支援した佐藤暁子弁護士も、病院側とのやりとりをそう振り返る。
長年、精神障害者の支援活動を行ってきた佐々木弁護士は、「なぜ彼女をこれほど長期に入院させたのか。その理由がわからないという点では、これまで携わった中でも最もひどいケース。ただひどいケースではあるが、同時にごまんとあるケースでもある」と話す。米田さんも「4年間の入院生活でさまざまな患者と会ったが、なぜ入院させられているのかわからない人も少なくなかった」という。
薬物治療も特別な治療プログラムもない中での長期入院、そして「社会的制裁だ」などという主治医の発言、家族との面会も不許可など厳しい行動制限の理由と真意について、多摩病院に取材を申し込んだところ、持田政彦院長名で下記のような書面回答が届いた。
病院も市役所も児相も取材拒否
「弊院に入院されていた患者様の件について取材のご依頼を頂きました。しかしながら、弊院では取材はお受けしておりませんので対応できかねます。ご諒解下さいますようお願い致します。」
八王子市役所と八王子児童相談所は、「特定の個人に関する情報は、第三者の方にはお答えできないことになっています」などと回答した。