izumiwakuhito’s blog

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人気作家・森村誠一、老人性うつ病からの生還「認知症を友とし、老いに希望を見つけるまで」

下記は婦人公論オンラインからの借用(コピー)です

「体重も30キロ台まで落ちて生死の境を彷徨った。医師にすがり、家族に助けを求めて弱い人間になっていった。でも…」(撮影:タカオカ邦彦)
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人間の証明』など、ベストセラー作家として知られる森村誠一さん。今から6年前、森村さんは「老人性うつ病」と「認知症」の診断を受け、一時は言葉を思い出せなくなり苦しんだという。病とほどよくつきあい、有意義な余生を送るための心の持ちようを綴る。
体重も30キロ台まで落ちて生死の境を彷徨った
若い時は楽しい出来事はいつまでも覚えていて、嫌なことはすぐ忘れた。88歳で認知症にもなると、楽しいことも簡単に思い出せなくなった。そうすると横にいる妻がクイズの連想ゲームをしているように、一緒に思い出すことを手伝ってくれる。私がヒントとなる事柄や単語を立て続けに10個ぐらい言うと正解にたどり着く。正解に私も妻も大きな声を出して喜んでいるのは実におかしな話である。
ただ、数年前に老人性うつ病になった。これは厄介だった。毎日どんよりとした暗い日々が続き、記憶が失われ言葉を忘れていった。作家にとって言葉を忘れることは無を意味する。小説は言葉の繋がりだからだ。私の脳から言葉がこぼれ落ちるという感覚だった。頭の中に言葉が残らない。気づいてみると仕事場の床に私の頭からこぼれ落ちた言葉が散り積もっているような幻覚にも襲われた。
私は言葉を忘れないように、筆ペンで広告の裏や白い紙に必死に書き散らかした。トイレや仕事場の壁、寝室の天井までその紙を画鋲で貼って何度も復唱を続けた。
体重も30キロ台まで落ちて生死の境を彷徨った。医師にすがり、家族に助けを求めて弱い人間になっていった。でも、不思議なもので歳月がたち、医師や家族の協力でだんだんと言葉が戻ってきた。どんよりとした暗い日々が、太陽が眩しい明るい日常になったのである。弱い人間になっても、私は希望だけは捨てなかったからだ。
認知症と友だちになった私
最近では、年相応の認知症と友だちになった私だが、医師から、楽しいものを探す、のんびりする、美味しいものを食べる、ゆっくり睡眠をとる、趣味を見つける、など生活習慣のアドバイスを受けている。おかげさまで食欲は旺盛で、認知症でも美味しいものだけは忘れない。だから妻には「あれが食べたい、これが食べたい」と注文も旺盛だ。
作家という仕事は、ほぼ一日中原稿用紙に向かっている。慢性的な運動不足になりがちである。肉体の老化を抑えるために、また様々な疾患を予防するために、運動不足は大敵だ。私が実践している健康法は昔から散歩だ。
散歩に出るのは、明け方と夕暮れになることが多い。人間は足から衰えるといわれるので、できるだけペースを維持して、リズムよく歩くように心がけている。大学時代は山岳部で百名山を目指していたので足腰は強く腰も曲がっていない。けれども思いがけない転倒もありえるので、ペースはゆっくり、ゆっくり歩く。住宅地の路地を抜けて駅前の商店街を巡る小さな旅だ。
散歩をはじめた頃は、コースを変えるのが面倒だったり、歩いているだけでは退屈したりしたが、認知症の今では自然に道を間違えたりするので、むしろ楽しみが増えてきている。空き地がビルに変わったり、新しいパン屋が出来たり、その変化は刺激となって認知症のリハビリにはちょうどいい。
同じ時刻に歩いても、春夏秋冬で道の表情は違ってくる。天候によって、また別の横顔を見せてくれる。早いときには一週間で、街は風貌を変えてしまう。日本の四季はいい、と改めて実感する。
老いには二つの勇気が必要
四季の情景を感じることは、私の趣味の写真俳句作りに役立っている。散歩の最中に俳句を詠む。歩きながらメモを取ると書き切れないこともあるので、ICレコーダーに吹き込む。そして、句材、句境になりそうな予感が走った情景を、デジタルカメラで撮る。
老人性うつと認知症と診断された後の苦悩の日々を綴った『老いの意味』森村誠一 中公新書ラクレ
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俳句と写真を連動させた写真俳句は、文字が並んでいるだけの俳句に比べると、情報量が圧倒的に多い。色が見えるだけでなく、音や匂いまでするような気がする。
点のような源を拡大していく小説に対し、俳句はイメージを17文字に凝縮させなければならない。俳句の凝縮は小説の世界の対極にある。拡大に慣れた小説に凝縮の技法は強い武器になる。それと写真という異なった表現が、私の認知症のリフレッシュに、とても役立っている。
また、散歩のコースに、かかりつけの医院を入れた。内科、整形外科、眼科、皮膚科、歯科、薬局などの前をわざと通る。通りすがりに待合室を覗いて、空いているようだったら、すぐに診てもらう。混んでいたら素通りする。病院にいちいち出かけるのは億劫(おっくう)なものだし、時間もかからないので、まさに一挙両得である。おかげで、身体のチェックもできて即席の人間ドックだ。
歳を重ねて、老いには二つの勇気が必要だということがわかった。老人になると思いがけない病気もするし、私生活で悩んだりもする。そんな予想外の出来事の危機に立ち向かうための勇気である。
もう一つは夢を抱くための勇気である。人生とは夢を持つことだ。何歳になっても夢は持てるし、小さな夢でも生きがいに繋がる。生きがいが孫の成長であったり、庭木に咲いた花や散歩の途中で出会った桜の花の変化を楽しんだり、我が家に来る野良猫の姿であったりしてもいいと思う。
生きがいとは、これからの夢である。だから小さな生きがいでも、本人にとっては老いの希望に繋がるのである。
有意義でなければ余生とはいえない
ほとんどの男が、なぜか妻よりも自分のほうが先に死ぬと思っているらしい。妻に先立たれることなど考えていない。自分が先に死ぬというのは年齢順による思い込みであろう。妻に先立たれる。突然の場合もあれば、ある程度予測できる場合もある。
前者の場合は事故や急病である。覚悟をする間がない。後者はある程度の覚悟をすることができる。がんなどに取りつかれて余命を宣告されたときである。
「おまえが居なくなったら生きている意味がない」などと、悲劇の主人公気取りになっている場合ではない。残された時間は限られている。懸命になって、ひとりで生きていく方法を模索しなければならない。認知症になる前に準備は必要だ。
今まで、妻に任せきりだった洗濯や、掃除など家事全般を覚える。重要な書類や有価証券、印鑑、通帳などの保管場所の確認をする。日常生活に必要なものすべてを把握して備える。準備をしているうちにひとりで生きていく覚悟もついてくる。
今は、寿命が延びたので誰にでも余生があり、誰もが老後と向き合わなければならない。しかも、その余生が、60歳定年でもっとも標準的な社会人人生を過ごしてきた人でも、20年以上もある。もはや、余生そのものが、重要な「人生の課題」になってしまったのである。
余生は余った人生ではない。何年間生きたかではなく、人間としての生きる時間が引き延ばされたものである。ただ生きているのではなく、有意義でなければ余生とはいえない。尊敬される老人であるために
100歳時代となり、現役とほぼ同じくらいの長さの余生を生きる人も増えてきたので、余生というものについて、誰もが真剣に考え、覚悟を持って臨まなければならない時代が到来しているのである。
人生50年の時代は、長生きする老人が珍しかったので、生きているだけ、存在するだけで尊敬されるべきだという風潮があった。しかし、現在は高齢者人口が増えたので、下手に長生きをしているだけでは、邪魔者扱いされてしまう。
国では便宜上、65歳以上が前期高齢者、75歳以上が後期高齢者と老人は区分されている。尊敬される老人であるために、まず重要なことは、心身ともに能力が高いこと。視覚、聴覚が衰えていたとしても、見よう、聞こう、という意識を持っていることである。
しかし、年老いたら病気もするし、悩みもつきない。家族にも、他人にも迷惑をかける。でも、迷惑をかけてもいいじゃないかとも思う。それは年老いたゆえのことだからだ。
病気になっても寝たきりになっても、夢だけは持とう。老いる意味とは「夢を持って生きること」にあるからだ。
老いる意味-うつ、勇気、夢
作者:森村誠一
出版社:中央公論新社