izumiwakuhito’s blog

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2歳の娘を見て性虐待の記憶がフラッシュバックして…虐待を受けた人たちが苦しむ子育ての壁

下記は婦人公論オンラインからの借用(コピー)です

親から子に対する、耳を疑うような虐待のニュースが、残念ながら後を絶たない。もしその親自身も虐待を受けた過去があったとしたら──(取材・文=大塚玲子)
虐待を受けたという幼少期の経験
「上の息子のときは何ともなかったの。娘が生まれてから、私おかしくなっちゃって……」。学校の保護者会で知り合った友人の話だ。出身校が同じとわかり親しくなった彼女は、子どもの頃、両親から暴力や暴言を受けていた。対照的に両親が溺愛していた兄からは、就寝中に身体を触られる性被害を何度も受けたという。
今から10年前、娘が生まれて間もない頃に蓋をしてきた記憶が蘇り、娘の世話ができなくなってしまった。精神的に追い詰められて何年かカウンセリングに通い、その後は落ち着いているということだった。
明るい人だったので驚いたが、さまざまな問題を抱える家族の取材をしていると、彼女のような人にときどき出会う。親から虐待やネグレクト(育児放棄)を受け、自身も子育てが苦しいと訴える人。子どもをもつことが怖い、結婚したくない、という人も少なくない。虐待を受けたという幼少期の経験は、のちに自身が家庭を築く際に影響を及ぼすことがあるのだ。
ももこさん(38歳・仮名=以下同)も、継父による虐待の影響から子育てに悩む母親の一人だ。正社員として働き、6歳の娘と夫と暮らす彼女は、4年前に一時、仕事が手につかない状態になった。以来、精神科とカウンセリングに通い、自身の過去と向き合っている。
ももこさんの母が継父と交際を始めたのは、ももこさんが3歳の頃。以来、彼女は親族に預けられたり、母と継父と暮らしたりしてきた。
「お風呂も小学校の高学年まで一緒に入っていて、入浴後には下着や服を着てはいけないというルールもありました。ずっと裸でいさせられ、遊びのふりをして触ってくるのですが、母親が止めてくれたことはほとんどありませんでした」
ただ当時幼かった彼女には、それらの行為の性的な意味はわからなかった。

リストカットが止まらなくなり…
同じ時期、ももこさんは継父による母親へのDVも頻繁に目撃している。
「継父はお酒を飲むと母親に暴力や暴言を浴びせるのが常だったので、母親が明日にも死んでしまうのではないかといつも心配していました。当時の記憶はかなり抜け落ちているのですが、小学校に入るか入らないかの頃に見た、母親が裸にされて、髪の毛を掴まれて引きずられるシーンはずっと記憶に残っています。その後も、何度も夢で見ました」
小学6年生のときに、虐待に気づいた祖父母に引き取られたことで、性虐待はようやく終わる。その後、ももこさんは寮のある中学校に進学して祖父母の家を離れたが、15歳の頃から自傷行為が始まった。
17歳のときには、継父と別れた母親が新しい恋人と失踪したことを知るとリストカットが止まらなくなり、寮から出されてしまう。しかし、学校の先生が彼女を精神科につないでくれた。
寮を出てからは住まいを転々とし、20代半ばまで過量服薬(薬を大量に飲むこと)や自殺未遂を繰り返してきたが、その後は比較的安定したという。職場で知り合った男性と結婚もしている。
娘が3歳のとき、見ていることも怖くなって
だが4年前、当時2歳だった娘を見ていたときに、自身の性虐待の記憶が蘇ってしまった。フラッシュバックと呼ばれる症状が起きたのだ。
「ある日、継父にされたことが今起きていることのように脳内で再現されたのです。そんなことが毎日のように起こり、娘が3歳のとき、いよいよ強烈に記憶が蘇ってきて。身体は固まるし、息もできない。娘を見ていることも怖くなってしまったのです」
すぐに精神科を受診したところ、医師はももこさんに生育歴を尋ね、過去に受けた虐待を指摘する。
「先生から、『自分が被害を受けた年齢に子どもが達したとき、母親がフラッシュバックを起こすのはよくあることですよ』と言われ、ちょっと安心しました。こんなにも過去の記憶が蘇って、娘と一緒にお風呂に入ることが苦痛になり、私は本当に頭がおかしくなってしまったと思っていたので……」
ももこさんは「娘に影響があっては困る」という思いから治療を受け、多くの専門書を読んだり、勉強会などに出向いたりしている。現在の苦しみの原因は、継父からの性虐待と、母親の断続的な不在の影響が大きいようだとわかってきた。
夫には、虐待を受けた過去についてあまり詳しくは話していない。娘の存在がフラッシュバックの引き金になってしまうとはいえ、ももこさんは、「治療を頑張って続けようと思えるのも、娘がいてくれるおかげ」だと話す。
フラッシュバックは、妊娠・出産時や育児期に起きやすい
そんなももこさんは1年前、同じ経験をもつ仲間とのつながりを求めて「マザーズ・ダイアローグ・カフェ」という活動を立ち上げた。幼少期に虐待などを体験した母親たちが、子育てや生活の困りごとを語り合う場だ。育児中の人、離婚して子どもと離れて暮らす人など参加者の背景はさまざまだが、皆、子育てにつらさを感じてきた。
見学させてもらった日、都内の貸し会議室には、ももこさんと、ともに活動を立ち上げた漫画家のヤマダカナンさん、ほかに2人の母親が集まった。この日のテーマは「どんなときに過去の経験が思い出されるか」。ももこさんが進行役として話を進め、ヤマダさんが皆の発言をホワイトボードにまとめていく。
たとえば、軽いフラッシュバックが起きるのは、「保育園にお迎えのため自転車をこいでいるとき」「子どもが一人でポツンとしているとき」。もっと強い症状が起きるのは、「夫や男性上司が大きな声を出したとき」「娘がお風呂で泣いたとき」「きょうだい喧嘩を見たとき」など、自身が受けた虐待経験と結びつく場面が並んだ。子どものきょうだい喧嘩は、両親の喧嘩を思い出させるという。
臨床心理士で、原宿カウンセリングセンター所長の信田さよ子さんはこう話す。
「フラッシュバックは、妊娠・出産時や育児期に起きやすいんです。それも自分と同性の子どもが引き金になりやすい。『親は自分にひどいことをしたのに、私はこの子をかわいがろうとしている。アンフェアだ!』という気持ちが湧いてくることもあります。それで自分がされたような虐待をしてしまい、子どもが泣いたり息をのんだりするのを見て、はっと我に返る。そう話す方もいます」

父のように息子に暴力を振るう自分が止められない。虐待を受けた人たちが苦しむ子育ての壁

あざや傷があっても……
女性だけでなく、虐待を受けた男性も同様の苦しみを訴える。13年前に離婚した正さん(48歳)は、小・中学生のときに父親から激しい暴力を受けていた。アルコールに依存していた父親は、仕事が終わって帰宅すると、寝ている正さんを起こして殴る蹴るの暴行を加えた。
「毎晩のことだったので、怖いという感覚も麻痺していた感じです。よく投げ飛ばされて頭をぶつけていたので、今でも頭の形がちょっと歪んでいます」
学校の先生にも誰にも相談はできず、あざや傷があっても心配してくれる大人はいなかったという。
「父が暴れているとき、母は近くにはいませんでした。自分も危害を加えられると思って、私を助けられなかったんでしょう。小学生の頃から、『早くひとり立ちして家を出たい』と考えていましたね」
大学に入ってひとり暮らしを始めてから、正さんは一度も実家に帰っていない。大人になってからは普通の生活を送れるようになっていたものの、前出のももこさんと同様に、結婚し、息子が生まれてから苦しむようになった。
「乳児の頃はすごく可愛かったんですけれど、2、3歳で駄々をこねたりするようになったとき、自分も父のように息子に暴力をふるってしまうんじゃないかと怖くなりました。それに息子を見ていると、父からされたことを思い出してしまって……」
実際に子どもに手をあげそうになったとき、「このまま一緒にいるより、離婚したほうが子どもにとってはいいのかもしれない」と思い至り、本当の理由は話さずに妻に離婚を切り出した。
「離婚したことで、息子に暴力をふるわずに済んでよかったと思います」と話す正さんだが、子どもと離れて暮らす今もフラッシュバックが起き、その頻度は年々増えているという。両親は今も健在だが、会いたいとは思わないし、もし介護が必要になっても、「首を絞めてしまうかもしれない」と不安になる。親と仲よく接している人がうらやましいと話した。

妻にはよく「暴力的だ」と指摘され
小学生と保育園児の息子をもつ勇さん(36歳)は、父親から暴力を受けて育ち、自身も子どもを虐待してしまい離婚した男性だ。
「殴られたことや、車のトランクに入れられたことは覚えています。虐待されていたという認識ではなく、『行きすぎた親父だな』というくらいの印象でした。でも当然、父親のことは嫌いで、自分が親になっても父のようにはならないし、自分は大丈夫だろうと思っていました」
父親は寡黙な人物で、話をした記憶はほとんどなく、声も思い出せないくらいだと、勇さんは話す。また母親は穏やかな人だったが、勇さんを助けてくれることもなかった。
勇さんが結婚したのは、約10年前。最初の子どもが生まれた頃から、妻にはよく「暴力的だ」と指摘されていたという。
「幼い子どもの胸倉をつかんで大声を出したり、蹴ったりしてしまう。イライラする気持ちのコントロールがあまりにもうまくいかないことに、自分でも気づいていました。でも、『父親が厳しいのは当たり前』と自分を正当化して、厳しいまま突っ走ってしまった。子どもへの教育方針の違いから妻への暴力も激しくなり……、でも自分では止めることができませんでした」
勇さんは長男が生まれて間もない頃に一度、心療内科を訪れている。自身が虐待を受けたという認識はなかったが、妻からの指摘もあり、自分のなかの暴力性に不安を抱いていたからだ。しかし医師は薬を出しただけで、彼の生育歴を聞かなかったという。同じ頃、妻にも相談をしたが、専門家ではない彼女は、夫が抱える問題の根に気づくことはできなかった。
妻との関係は徐々に悪化し、半年ほど前に「子どもを連れて出ていく」と告げられたとき、ほっとした気持ちも感じたと話す。もう一度やり直したいと思った勇さんはカウンセリングに通い、DVや虐待について勉強を始めたが、妻の気持ちはすでに固まっていた。話し合いの末、離婚が成立したのはつい最近のこと。「今は反省しかない」と過去を悔やんでいる。

自らの傷を認識し必要なケアを受けるには
「虐待の世代間連鎖」ということが言われるようになって久しい。これは、「虐待を受けて育った人が親になると子どもを虐待するようになる」とする説だ。虐待を受けた人自身、この言説にとらわれて結婚や子どもをもつことを躊躇することも多い。
だが実際には、必ずしも連鎖が起きるわけではない。前出の信田さんは、ももこさんや正さんのように自らの虐待経験を認識できる人は、虐待しないことのほうが多いだろうと話す。ただし、勇さんのように虐待を受けた認識がない場合や、その後の人生で適切なケアを受けていない人の場合、連鎖の可能性はあると指摘する。
「ケアというのはカウンセリングを受けることだけではありません。たとえば、配偶者に話し、それを受け止めて労ってもらうような体験でもいい。そういった経験がないと、自分の子どもが目の前で楽しそうに遊んでいるのを見るだけで『許せない』といった気持ちになっても不思議ではありません」
では虐待を受けた人が自らの傷を認識し、必要なケアを受けられるようにするにはどうしたらいいのか。適切なケアを得られる人は多くないのが現状だ。専門機関などに相談したものの、本当に必要な助けは得られなかったという話は取材でよく耳にする。先ほどの勇さんもそうだった。
マザーズ・ダイアローグ・カフェ」のヤマダさんも、同様の経験を話す。「児童相談所に育児の苦しさを相談したことがあるけれど、つい平気なふりをしてしまうから『大丈夫だ』と思われて、何も支援を得られませんでした」。
このように、せっかく勇気を出して専門家や周囲に相談しても助けを得られなければ、相談の場からより遠ざかってしまうことも考えられるだろう。そもそも虐待された人は、近所の人や教師など周囲の大人が虐待に気づいても助けてくれなかったという経験をしている。そのため児童相談所や行政の相談員など、「自分を助けてくれるべき人に相談をすること」自体が過去の傷を想起させ、困難なのだともいう。
専門機関に相談しても必要な支援に結びつかない理由の一つとして、「カウンセラーや医師にトラウマの視点が欠けている」ことを信田さんは挙げる。
トラウマとは過去の出来事によって心に刻まれた生々しい傷のこと。虐待や犯罪被害、戦争や災害などによって生じやすいとされる。「子育てがつらい」「虐待してしまうかもしれない」と相談を受けたとき、援助者は本人のパーソナリティの問題でなく、トラウマの視点から捉えることが大切だと信田さんは続ける。
「トラウマの後遺症をPTSDと呼びますが、危機的な状況が去った後から出てくるものです。『虐待の世代間連鎖』も、『過去の被害体験の結果』として捉える必要がありますが、残念ながら今はまだトラウマの知識をもって対応できる援助者は多くありません。そのため『専門家だと思って話したのに、想定外の対応をされた』ということになりやすい。そんな経験が重なれば相談しづらくなるのは当然です」責めるだけでは虐待はなくならない
では、彼女ら・彼らはどうしたら救われるのか。信田さんは「こういった人が精神科や心療内科を訪れたときに生育歴をていねいに聞かれるだけでも違うはず。保険診療では難しいかもしれませんが」と話す。
トラウマという視点をもつ必要があるのは専門家だけではない。すべての人が、自分や身近な人が過去に虐待を受けているかもしれないと意識することで、次なる被害を食い止められる可能性がある。
「子どもにやたらと当たってしまう、家族への暴力行為が止まらないなどの場合、『何らかの被害経験とつながっているのかもしれない』という視点をもって専門家につながることがとても大事です。『トラウマ症状はクライシス(危機的な状況)が去った後にやってくるもの』と知っていれば、妻や夫が問題行動を起こしたとき、その人を責めずに済むでしょう」
ただ責めるだけでは、虐待はなくならない。虐待の一歩手前で「子育てがつらい」とサインを出す人たちにどう寄り添っていけるか、私たちは考えていく必要があるだろう。
出典=『婦人公論』2021年3月9日号
大塚玲子
ノンフィクションライター
1971年千葉県出身。「定形外かぞく(家族のダイバーシティ)」代表。出版社、編集プロダクション勤務を経て、ノンフィクションライターとして活動中。